प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

恐れと争い

'18.01.07

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

ニュースでは相変わらず戦争や殺人などの暗い話題が多いですが、釈尊が「武器を手にするところから恐れが生じる」(スッタニパータ935)と仰せのように、戦争や殺人の最大の原因は、「恐れ」です。武器を持つことと恐れを持つことは「鶏と卵」でどちらが先ということはありませんが、ともかく迫害されないか、権利を侵されるのではないか、財産を盗られるのではないか、馬鹿にされたり軽んじられているのではないか…そういう心の中の恐れが、防御からの反撃につながり、やられたらやり返す式の状況となり、戦争や殺人に繋がります。

ではどうしてそのような「恐れ」が心に生まれるのでしょうか。

答えは、「我」という思いが強すぎることです。「私の権利が」「私のお金や持ち物が」「私のプライドが」「私の、私が、私、私、私」…あまりにも自分中心の考え方が行き過ぎたとき、人はどうしても防御的な考えになり、他人を警戒して排除しようとしてしまいます。そうすると次には、それを実行するために武器を使うようになります。ミサイルや核兵器や包丁や鉄パイプだけではなく、言葉や態度や社会的立場も武器となります。それらを使い、「敵」に向かっていきます。
そしてその行為が、さらに心の中に恐れを生み出していくことになります。
武器を持つ → 恐れが増える → 武器を持つ → 恐れが増える … という連鎖が止まらなくなります。

確かに、降りかかる火の粉を払うことは必要です。やられても我慢しろ、差別されてもいじめられてもただ耐えよ、とは言いません。しかしよくよく考えると、世の中の争いの過半数は、お互いの疑心暗鬼と「私(たち)だけが」という自己中心的な思いによって、必要以上に燃え上がりすぎます。火の粉を払うだけではなく、「相手にも同じような、いやそれ以上の報いを得させたい」となるのです。そうなると、争いや憎しみの連鎖がどんどん大きくなり、戦争や殺人にまで発展し、恐ればかりに支配される殺伐とした心になってしまいます。

それを止めなくてはなりません。

それには、私たちはそもそも皆ひとつの世界に、お互いに関わり合ってしか生きられないとしっかり知ることです。好きであれ嫌いであれ、敵であれ味方であれ、すべてがつながりあって存在しています。見える世界とも見えない世界とも、そのようなものです。「私だけのもの」などありません。恐れも愛も人もお金も権利もプライドも、本当は世界全体に共有された一続きのものです。それを鷲掴みにして「自分のものだ」と無意識に思い込むところに、恐れが湧いてきます。その自己中心や恐れの象徴が、ミサイルや言動・振る舞いによる大小様々な武器です。

武器を捨てよう、というのは、軍縮や核兵器廃絶ももちろんそうですけれど、それ以前に、自分の心にある自己中心性や恐れを捨てよう、ということです。皆つながりの中に生きていて何も排除はできないことを知り、助け合い支え合い与えあう気持ちを思い出すことです。
そうして睦みあう清らかな世界を、少しでも私たちの足元の家庭や地域から作っていく一年にいたしましょう。