प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

ナイフ

'17.12.06

仏教は果たして「無神論」なのだろうか。一神教徒からは多神教扱いされたり無神論扱いされたり、あるいは自ら「神仏習合」と言ってみたり。

要は「神とは何か」の定義如何。

たとえば認識や定義不能な絶対存在としてのXならば、法身はそれに当たると見ることができるし(仏身論とキリスト教におけるトリニティとは構造的な近似もあろう)、真言密教ならば大日一仏論であり、一種の神観念であると言えなくもない(もちろん創造神ではないが、流出論的創造みたいに考えている仏教徒だっているだろう)。阿弥陀如来一仏崇拝などは、ほぼ神信仰と信徒レベルの信仰意識は一緒ではなかろうか。
そもそもヨーロッパやイスラームの定義する分類がすべてではなく、神の概念は世界中にあったしあるわけで、単純に無神論だとか多神教だとかで定義はできない。

「仏教は哲学か宗教か」という議論も同じだけど、見方によってどうにでもなる。一神教文化からの視点で規定しようとしても無理がある。しかし、「近代的思考」に無意識に影響された僕たちは、なんとなく無批判にその視点を使ってしまう。

仏教はもっと柔軟なものではなかっただろうか。
世界を臨機応変に切り取り実体視する僕たちの無明を確認し、ブッダは自在にその「分別のナイフ」を利他に使う。だから、無神論であれ多神教であれ一神教であれ宗教であれ哲学であれ、相手と状況によって自在に現象世界を切り取ってみせる。
それらの「観念」は、観念に過ぎない。ただ、成就への道行きの杖に役立つならば、効果的に使う。いつかは、捨てるべきものだ。

だから仏教は、あらゆる思想や宗教と矛盾し得ない。
切られた現象のカタチにさえこだわらず、内部を入れる前のXをしっかりつかまえようとしているならば、すべては仏教であり得る(Xをどう考えるかはまた次の段階として)。