प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

戒体

'16.10.21

「戒体」という言葉があります。

簡単に言うと、「受戒によって戒を守り成仏・覚の原因となる戒体を獲得する」というように使われるようですが、イマイチよくわからない言葉です。『大辞泉』には、「戒を受けることによって備わる、悪を防ぎ止め善を行う力」とあります。
まぁ、日本語としてはわかりますが、具体的にでは、どういうことかと言われるとなかなか説明が難しい。

今回は、これを説明しますが、まずふたつの事を確認します。
ひとつは、「業」について、もうひとつは「七仏通誡偈」です。

まず「業」ですが、ご存知の通り、業は「行為」また「行為によって苦楽の果をもたらすこと」ですが、これは基本的に三つに分けられます。
これもご存知だと思いますが、「身業」「口業」「意業」です。中心は「意業」ですが、いずれにしても身と口と心のみっつの行為が、私たちの行為のすべてです。これらをまとめて、「表業」といいます。これらの業には悪業・善業・善悪業・不善不悪業がありますが、今はそれは措いておきます。

また、「無表業」というものもあります。「表沙汰にならない業」ということですが、これは行為によって薫習していく「業熟力」というようなもので、たとえば車の運転を現にすることは「身業」ですが、練習・経験によって「運転能力を獲得している」という事実を無表業といいます。これも、発現はしていないのですが、広い意味で「業・行為」に含まれます。状況が整えば表に出て来るものだからです。
一方、車を見たこともない人であれば、状況が整っていても運転と言う身業は発現しません。しかし免許を持っている者であれば、無表業として伏在的に「練習・経験」が五蘊のうちに継続していますから、運転ができるわけです。

次に「七仏通誡偈」。
ウィキペディアから引用しますと…

諸悪莫作 ― もろもろの悪を作すこと莫く
衆善奉行 ― もろもろの善を行い
自浄其意 ― 自ら其の意を浄くす
是諸仏教 ― 是がもろもろの仏の教えなり

つまり、「悪い事をせずに良い事しましょうぜ」ということです。
これが、仏教のすべてです、という言葉です。

正直、「は? それだけですか?」ですね。僕もそう思います。
高尚でも難解でもない。
どうしてこれが「究極」なのかよくわからん、というのが実際のところですね。

これは実は、単に「道徳」スローガンを貼り付けているようなものではなくて、正しく「無表業」のことを述べているのではないかと思います。
車の運転のように、善業を蓄積すればそれが薫習して自然に楽果をもたらす行為ができるようになり、逆に悪業を蓄積すれば苦果をもたらします。無漏業によって解脱・覚につながっていくのも当然です。
当たり前のことですが、もっとも重要な「因縁果」「縁起」の理法を端的に示すものであるがゆえに、古来より「仏教の究極」とされて来たのでしょう。

で、「戒体」です。

もう一度、繰り返して確認します。

「戒体」とは、「受戒によって戒を守り成仏・覚の原因となる戒体を獲得する」「戒を受けることによって備わる、悪を防ぎ止め善を行う力」。
これは無表業のことですね。

受戒することは、覚りへの重要な第一歩です。この第一歩を、「受戒する」という「表業」を行うことで、確実に「無表業」が発生します。弱弱しくとも、必ず。善の因は必ず、どんな些細なものであれ「楽果」をもたらします。それを僕たちが記憶していようといまいと、必ず。逆もまた然りです。

受戒の行為は消えません。業は消えない。無表業も消えないんです。
もちろん、車の運転も「習熟すればするほど」うまくなります。しかしペーパードライバーであっても、まったく車を見たこともないような人に比べたら、圧倒的に運転できるわけです。無表業は、消えません。普段まったく意識していなくても。
戒体も同じことです。受けたものは、消えません。しかし、習熟すべく「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意」の生活を一進一退しつつも心がけていくことで、無表業は強化されます。戒体が確立します。
ですから受戒は「守れなくても意義があります」。その時だけでも真剣に受ければいいのです。ただし、それでは自動車学校に一日通っただけです。無意味ではないけれど、運転は出来ないでしょう。しかし、第一歩はそこです。
その後、少しずつでも戒を意識し、前を向く生活をする。受戒は何度受けても良いですし、それよりも大切なことは、生活の中で戒を自分に馴染ませていく「表業」を繰り返すことです。「表面的じゃないかな」「偽善かな」と思っても、まずやってみて、少しずつ「表業」を積みましょう。それが徐々に「無表業」「戒体」として成熟し、自由自在に車の運転ができる境地に、少しずつ近づきます。

そうしてその先に、すべての有漏の業も無表業も超えた無為の絶対的覚が開けて来るのですが、それは「戒」を確立したその先、定・慧によってです。このみっつは実は当然ながら並行していくべきものですが、僕たちが現実に初心から実践していくにあたっては、まず「戒」が第一歩で、善因を蓄積していく行為が大切になって来ます。

それが、是諸仏教です。