प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

輪廻

'15.07.20

仏教が輪廻を否定したとかいう人がいますが、輪廻を否定するとはどういう事態を指すのだろうか。
輪廻がないなら、解脱もないということでいいのかな?

輪廻が端的に「ない」のだとしたら、人は死んだらどうなると認識しているのだろうか。
修行の意味は何だろうか。もし誰でもが「同じ状況」、それが浄土でも無でも、だとしたら行も信心もいらんよな。
現世限り。

輪廻からの離脱をこそ目当てにしているのであるから、輪廻というものに関わるな、それについてうだうだ考えることなく修行せよ、ならわかるけれど、「輪廻をないものとして否定しろ」というのはどうなんだろうか。

「霊魂の有無」にしてもそうなんだけれど、どうして「無」と言い切れるのだろうか。
「我」に実体はない、という程度には「縁生のもの」として「存在」はしているのではないですかね。
自性がないということと、現象として存在していないということとは別の次元だと思うわけだけれど。

輪廻だって、大きな海の視点ではそれは「本質的にはない」ものてはあっても、やっばり「波」は現実には立っているわけで。
波の存在を否定して、「海だ海だ」と言っても、それはあまり意味のある言い方ではないと思う。
海の独一が本来であることと、しかし今目の前に波が立っていることとは、矛盾しない。
輪廻が本質的には妄念であることと、実際に輪廻してしまうこととは、矛盾していない。
逆に、「波・輪廻なんかないんだよ」という方が、議論が空疎になってしまっているように感じてしまうのだけど。