प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

仏法の山

'15.11.09

山嶺の素晴らしさを語るのに、その頂上からの眺望や山容全体を放っておいて、やれ南ルートがいいとか西ルートこそ本質だとか、冬山登山が最高だとか、夏山だとかを誇る。
山そのものにルートの別もなく冬も夏もない。
よしんば、登山するという実践を視野に置いたとしても、すべての要素が山のあり方を全体として規定するのであって、特定の要素だけを取り出して優位に置いて、やれ他者より優れているとかどうだとか、笑止千万。
山そのものの認識からは、どんどん遠ざかって行くだけ。

「あなた」の歩いた道だけが、山ではない。

また、山そのものを認識するためには、谷や造山運動、つまり変化するものや、あるいは植生や山岳文化、川や気象などの総体も、その理解には不可欠。
そういう絡み合った様々のものを単純化してああだこうだ言いながら、総体としての山を分割矮小化して「自分の理解に則った部分だけ」を図式化して誇ったところで、いったい何になるのだろうか。