प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

私は誰であるか

'15.01.19

プロ野球を観戦することと、プロ野球選手であることはまったく別のことである。
そんなことは誰でもわかる。
仏教学・教学を理解することと、仏教徒であることとはまったく別のことである。
これは誤解している人もいるけれど、いわゆる仏教学者が必ず仏教徒であるわけではない事実を指摘すれば、これもまぁ、わかるだろう。倫理学者が倫理的であることとは無関係であるのと同様。

さてしかし、事はそう単純なのかと、ちょっと考えてみる。

他者の何かの知識をトレースして理解したとしても、もちろん「彼」は「他者」とは別個の存在であるわけだけれど、それを往々にして同一視してしまい、意味のない誇りや高慢、あるいは他者にそれを投影して憧れや追従をしている場面が、実は多いのではないか。
具体的な場面は様々あり得るとは思うけれど、自分を顧みても、そういう陥穽に嵌っている場合があるように感じる。
プロ野球を観戦して自分をプロ野球選手だと想像するのは楽しく、また罪はないことであっても、本当にそう思い込んだら、それは病気である。

私の場合、私は「僧侶」である。
ただ、僧侶という肩書を持っていたとしても、それは肩書にすぎず、仏教学の知識を持っていてもそれは単に過去の知識や書物をトレースしているだけであれば、それは実態として「僧侶」という定義に当てはめられない。「行」をしていても、それがトレース作業になっていたとしたら、結局は同じことである。「独自の行をしている」としてもやはり、それは過去の蓄積を適宜に配置変えしたり編集しているだけであれば、結局それだけのこと。
それだけのことが本質と取り違えられてしまい、巷には「僧侶」が数万、十数万人存在している。私もその中のひとりである。確かに社会的には「僧侶」であろうし、私も自分を僧侶だと思っているけれど、それが果たして「妄想のプロ野球選手」でないと、どうやって証明できるのだろう。

事ここに思い至ると、果たして「仏教」というのは何であろうか。トレース作業を超えて、世界の「ほんとうのところ」を求め、まったく私個人の問題としてそれを考えていくと、必然的に仏教、あるいは既存の言語的ドグマを超えていかざるを得ないように感じる。そしてその為には、結局のところ既存の経験や知識の蓄積、そして「言葉」に頼らざるを得ない現実もある。
このせめぎ合いをどう取り扱うのかが、「プロ野球観戦者」と「プロ野球選手」の境界なのだろう。

私はいまだ、テレビでプロ野球を観戦する一ファンでしかないことに、とても寂しさを覚える。