प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

考えるということ

'12.11.18

色々な事を知っている「物知り」「専門家」はたくさんいる。
情報を要領よくまとめる者もたくさんいる。
物事を整理してうまく仕事を采配できる人もいる。
どうしたら事態が打開できるか悩んでいる者もたくさん。
困ったり喜んだり迷ったりする人は更に多い。

でも、「考える」人はどのくらいいるだろう。

「考えているつもり」で、その実「思っている」「困っている」「悩んでいる」「情報をインプットして整理している」「目先の事象を追っている」「過去を反芻している」「未来を妄想している」だけ人が多いのではないだろうか。
「考える」とはそういうことではなくて、まず根本的であるということ。それは「考える」ということの意味を「考える」、「考えている私」とはどういう事態であるのかを「考える」、この事象に意味があるのか、そもそも「意味とは何か」を考える、ということ。
これは知識量云々ではなく、シンプルに、根源的に「見る」という作業に近い。
そうして、根本的である、根源的に見るという、そこを突き抜けたところにあるものは雑多な客観的事象ではなく、「見る」というものが通じない、ある極点における「全的ななにか」に「なる」と言う事。ここまで来ると「見る」も「見ない」もない。「考える」もない。

知識は邪魔にはならない。必要な分だけは必要だけれど、それらは「足場」でしかないのだから、いずれ捨てるべき時が来る。知識を磨くことも結構だけれど、そんな足場を飾り立てたところで、家は永遠に建たない。
「考える」ということは、足場を組み、利用して、捨て去るという一連の流れすべてを意味している。主客分立の妄想分別世界の住人たる私たちとしては、ここまで「意識して」「考える」ことが、無分別の極点に至る(何が?)唯一の道なんだろう。

ところで私自身は「考えている」だろうか。
率直に日常を振り返った時、残念ながら「思っている、困っている、迷っている、情報処理している」だけの事がほとんどだ。一生は短く、大切なことはとても深い…まずはよくよく「考える」生活・一生でありたいものだと、そして真実の意味で「考えなく」なれば最高(何と比較して?)だと、本当に心から思う。