प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

泥のまま

'12.10.13

内村鑑三『求安録』に、以下のような文章があります(直接には教文館『一日一生』から抜粋)。

母の手から離れて泥中に陥った小児は、己を洗浄するまで母のもとに帰らないだろうか。泥衣のまま泣いて母のもとに来るのではないか。そして母はその子が早く来なかったことを怒り、直ちに新衣を取って無知の小児を装うのではないか。

内村鑑三はもちろんクリスチャンです。しかしこの文章は、仏教にも当てはまる素晴らしい言葉だと思います。

大乗仏教では「菩薩行」とか「利他」ということを大切にします。しかし「私はまだ凡夫で自分をすら救えないのに、他人を救うなんてできない」という言葉もよく聞きます。「まずは自行だ」と。

果たしてそうでしょうか。

キリスト教において「泥のまま母に飛び込む」とはつまり、イエス・キリストの救いに正しく向く、という事に他ならないのですが、仏教においてのそれは、「自利利他円満を目指して生きる」ことになると思います。自利・利他どちらが欠けても、それは大乗仏教にはならないのだ、と。

泥のままとはつまり、煩悩・無明に沈む凡夫のままでありながら、仏教の指し示す真理の存在を信じ、自分自身が如来そのものであると信じ、「つまらないこの心」こそ如来の性を十全に持っている真実のいのちだと信じ、仏のなすべき業を私がやる…まずそう決心することだと私は思います。

もちろん不十分でしょう。出来ないことも多いでしょう。挫折もするでしょう。

しかし常に仏法を燈火とし、如来の業の一分でも輝かせるようにする。自分自身の本源の心を決して卑下することなく(現実の自分について増上慢になることなく)、地道にコツコツと実践していく。その実践こそ、泥のまま母に飛び込む、ということです。
そして仏教における「母」とは、実は私自身の本来の業用でありまた、この世界森羅万象すべての中で「痛んでいるところにある慈悲の存在」そのものだと思います。
泥を落としてから…つまり「成仏してから」そこに目を向ける、というのはあり得ません。そういう「痛み」の部分に飛び込んでこそこの世界の実際が体感できるし、その先にしか成就というものはないのですから。

自戒自戒。