प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

老人会の法話

'12.11.20

皆さんは「命あるものは平等である」ことを、本当に理解できているでしょうか。

「あいつが」「私こそ」という気持ち、あるいは誰かと比較して落ち込んだり羨んだり、いつも「私とあなたは別」ということを、無意識のうちに考えているのが私たち人間です。
悪人であれ善人であれ、日本人であれ中国人であれ、犬であれ鳥であれ、いのちはひとつ所から出て、へその緒のようにすべてつながっています。
ひとりが傷つけば、すべてが傷つきます。
おなじひとつのいのち・同じひとつの母親と血も運命も共にしています。
その母親とは、宇宙いっぱいに広がる「仏のいのち」、目に見えないけれども確実に流れている「ひとつのいのち」です。
どうしたらその「ひとつの大きないのち」を感じられるのか、報恩できるのか…頭で色々と考え・学ぶことも大切です。
しかし、行動することはもっと大切です。

そのことを行動で示した方として、「常不軽菩薩」という方がおられます。
この話は、インド・中国・日本、そして天台宗・日蓮宗・真言宗・曹洞宗など、国や宗派を超えて古来より大切にされてきた、代表的な仏教経典である『妙法蓮華経』に説かれています。

仏性礼拝の常不軽菩薩
妙法蓮華経常不軽菩薩品第二十

正法が滅したのち、一人の菩薩が現われた。人びとはこの菩薩を常不軽と呼んだ。
というのもこの菩薩は、相手が男であれ女であれ、僧であれ在家であれ、人を見てはみな礼拝し賛嘆してこう言ったからである。
『我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず。所以は如何、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし
(みなさん、わたしはあなたがたを敬います。軽んじません。なぜなら、あなたがたは菩薩の道を行じて、仏となるからです)』
こうしてこの菩薩は、経典を読誦することなく、もっぱら人びとを礼拝するばかりであった。
会う人ごとにこのように言うので、人々は怒り出し、しまいには棒で打ち石を投げる有様であった。
しかしこの菩薩は怒ることなく、逃げ出して遠くに行くと振り返って、『あなたがたを敬います。軽んじません。あなたがたは仏になります』と遠くから大きな声で言うのであった。こうして人びとはこの菩薩を常不軽と呼んだのである。
この菩薩は、死期が迫ったとき、虚空で、威音王如来が説く法華経の詩句を聞いてことごとく信じ、眼、耳、鼻、舌、身、意根が清らかになり、命を永らえ、二十千万億年の寿命を得た。そして広く法華経を説いた。
かつて菩薩を軽んじ賤しめて常不軽と呼んだ人々も悉く教えを聞くために集まり、みな菩薩に従った。

この話、宮澤賢治にも大きな影響を与え、雨ニモマケズの詩が出来ました。
賢治にとってこの菩薩こそ理想の人格であり、また実際、そのように生きた人でした。

雨ニモマケズ
宮澤賢治

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ陰ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

私たちも「いのちのつながり」を感じ、他者を傷つけず、皆でなかよく和合して生活することが幸せの第一歩です。
まずは「自分自身と仲良くする」こと、次に「家族兄弟」そして「地域社会」、職場の人や趣味のつながり、そして秋穂全体、山口市、山口県、日本、アジア、世界、宇宙、また、人間からペット、動物、魚、虫、植物…自分を出発点に、どんどんとつながりを感じる範囲を広げ、仲良く和合する範囲を広げ、比較して上下をつけるのではなく、いいところを見つけあい、そして一緒に楽しく、仲良くやっていくことが、「大きないのち」の本来の姿で自然なことだと、それを今日は改めて、皆さんで感じていただける場としてください。