प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

帰る場所

'11.11.22

お寺の役割、あるいは僧侶の役割というのは色々あるんだろうけれど、そのうちのひとつとして、「帰って来る場所」というのはあると思う。

とは言っても、それは物理的な場所ではなく、精神的な部分でのことだけれど。

で、その「精神的な意味で、帰ってこられる場所」と言う場合、ふたつの意味がある。

ひとつは、日本人にとっての「日本」ということ。

現代日本においては、外国との交渉も昔よりずっと多くなったし、その気になれば外国にだって住むことができる。仕事で毎日毎日、外国と関わる人も多いだろう。日本の街自体どんどん無国籍化している。英語くらい喋れないと、今後は仕事もままならなくなるかも知れない。

それはそれで時代の趨勢だけれど、でもやっぱり、日本人は日本人でありたいと思う人もいるだろう。そもそも文化的・精神的な根なし草では、国は成り立たない。経済国家としてはもちろん成り立つだろうけれど、それはもはや拡大した企業国家・管理国家でしかなく、伝統に培われた豊かな「人間の国」ではないと思う。

寺院・僧侶、特に寺院はそういう「人間の国」を象徴する場であることが出来るし、また、そうでなくてはならない。昨今は目先の経済的変遷に追随する企業寺院ばかり目立つようになったけれど、本来、寺院はそういう社会の趨勢から身を引いたところで、十年一日、めまぐるしい時間の流れを超えた場所であるべきだろう。

人間の国であった豊かな日本的原風景、というと陳腐だけど、でもやっぱり、寺院はそういう場所であるべきだと思う。寺院まで経済国家の構図にがっちりはまっていては、なんともやり切れない。

もうひとつ、それは「信」ということ。

人はいくらお金を持っていても、物質的に満たされていても、取り巻きがたくさんいても、しかし死ぬ。誰もが死ぬ。

死ぬことの存在論的な意味、生きることのそれ…そのことを(単なる思考停止や投げ遣りな諦観じゃなく)深刻に自覚した時、果たしてめまぐるしいこの経済至上の現代社会に追いまくられ、また追いかける人生が、どれだけのリアリティーを持つのか、どうしたって疑念を抱かざるを得なくなる。

この経済至上社会を「勝ち抜く」ための自己実現…勝ち抜いた先に、ずっと先には何があるのか。死、輪廻、そして宇宙の壊滅と宇宙的輪廻…私たちはどうしようもなく、そんな流れの中で溺れているのに、それを見ずに闇雲に生きている。そんな状態で「勝ち抜く」…誰に? 「自己実現」…自己とは何?

現象に引きずられているだけでは、虚しい。

しかし現実の生活のためには、虚しい現象でも追わざるを得ない。

その葛藤の中に浮かび上がるのが「信」であるのだと思う。

寺院と僧侶、とりわけ僧侶は、この「信」について考え、修行の中でそれを把握していくために生きる存在であるわけだから、生活者にとっては「指針・ともしび」でなくてはならない。

だから僧侶まで虚しい自己実現幻想に踊らされ、あくせく毎日を「戦って」はならない。僧侶は「福田」というけれど、田そのものは自分を耕さないし、種もまかない。田は人の為に、揺るぎない基盤とならなくてはならない。揺るぎない基盤となるための行為を僧侶はしなくてはならないけれど、それは決して、経済至上主義に彩られた現代的「自己実現」ではないだろう。

「精神的な意味で、帰ってこられる場所」。

寺院の場合、そして僧侶の場合…いざ自分を省みると、甚だ心許ないけれど。

【追記】

「福田云々」については、阿含経典に出てくる「福田」の教説とは少し表現に違いがありますが、まぁ、それはそれとして、あくまでも比喩としてのそれだと考え、ご寛恕ください。