प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

天上天下唯我独尊

'19.04.07

天上天下唯我独尊。

文字通りに読むと、「この全宇宙において、ただこの私だけが尊い」となり、いささか傲慢な感じを与える言葉です。
この言葉は、お釈迦様がご誕生されてすぐに七歩歩いて、天と地を指差しながら言われた言葉だとされていますが、本当にお釈迦様はこんな自己中心的なことを言われたのでしょうか。
そもそも生まれてすぐの赤ん坊が、こんなことを言えるものでしょうか。…しかし後世の伝説ならばなおさら、この言葉には仏教の大切な意味が表されているはずです。後の人が「お釈迦様はこんなに傲慢だった」などと言うはずがないからです。

では、どう考えたら良いでしょうか。

まず「天上天下」ですが、これは全世界・全宇宙、それも仏様の世界から地獄までを含めた、目に見える世界・目に見えない世界まですべて含んだありとあらゆる世界、ということです。
その世界の中で、「唯だ我れ独りのみ尊し」ということなのですが、「我れ独り」というのは、「この私という存在だけで尊い」と言うことではないでしょうか(縁起を突き詰めるならば、「私という存在だけが」でも実は良いのですが、今は「だけで」と読んでおきます)。
つまり、私達は「お金・容姿・人種・地位・職業・学歴・名誉」などによって誰かを、あるいは自分を尊く感じたり卑しく感じたりしてしまいがちなのですが、本当はそうではなく、この私は【何も付け足さなくても】最初から本当は完成されていて尊い存在なのです。それを腹の底からわかれば、「あぁ、この世界の中でこの私だけが尊いのだ、そしてそれは他の人も同じだ」「そこに気づいてそのように考え生きられるかどうかだけの問題だ」とわかるのだ、とお釈迦様は教えておられるのです。

私たちはどうしても、人を「その人自身の存在だけ」で尊く感じられず、お金持ちや地位のある人を尊く感じてしまいます。それがない人を低く見てしまいます。しかも、「自分にとって利益があるかないか」すらをも付け足しながら、人物評価をします。それは自分自身にも向けられ、傲慢になったり卑下したりしているのが実際です。

私たちは、ただ自分自身であるだけで皆ほんとうは尊く、完成されています。ただそれに気づかず、油断したら上下左右をつけてしまい、色々なものを付け足しながら迷っているのではないでしょうか。
何も付け足されていない、名前も肩書も財産も何もない、素の自分、根っこの自分、揺れ動く心の表面を引き剥がした心の根っこに横たわる無差別の自分、この宇宙に比較するもののない独りの自分とは何かを知り、比較せず、ただいつも尊くありなさい、ということを教えるために、お釈迦様はご誕生になられたのです。