प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

さとり

'18.12.06

12/8は、釈尊・お釈迦様がさとりを開かれた記念の日、成道会になります。

さて、その「さとり」とは何であるかには様々な表現がありますし、また色々に理論化されているのですが、基本的には「私たちの人生は苦である」けれども、「どうしてそうなのか」をしっかりと見据えられたところに、必ず苦は消滅して平安安楽の境地が実現する方法があるのだ、ということを釈尊ははっきりわかられた、ということです。
それはつまり、私たちの様々な曲がったものの見方や煩悩、執着や怒り…そういうものが苦の原因であり、それをどうコントロールして苦をなくしていけるのか、を釈尊は教えられたわけです。
もちろんこれは「説明」ですから、「さとりの体験」そのものではありません。リンゴを知らない人にリンゴの説明をするようなもので、言葉を超えた「さとり」の境地を完全には説明できないのです。しかし人は言葉を使わなくては伝えられないので、釈尊はこのように教えられました。

そういう「さとりの世界」を、弘法大師は大日如来の光明によって説明しています。

大日の光明廓として法界に周く
無明の障者忽ちに心海に帰せん
無明忽ち明となり 毒薬たちまちに薬となる

『三昧耶戒序』

「大日如来の光明は、全宇宙を照らし、闇で迷っている者を仏の世界へいざない、絶望が希望になり、毒がたちまち薬に変わる」。これは苦の世界・闇の世界にある私たちが、「さとりの境地」=大日如来の光明によってすべて照らされて、苦しみが安楽平安に変わっていく、ということです。

ここで大切なことは、大日如来は空の向こうの神様ではなく、私たちの心の本質こそが仏であり、大日如来の智慧と慈悲の光そのものである、ということなのです。私たち自身が本当は仏であり、釈尊や弘法大師の教えによって修行をして迷いを離れてしまえば、自ずから身も心も輝き出します。苦が消えていき、穏やかで清らかな、安楽平安の心で満たされていきます。

そのためには実践が必要です。下ろせない預金はないのと同じ、仏性という財産があっても、引き出す方法を知り、手段がなくては意味がありません。
その方法には「十善戒」「六波羅蜜」「座禅や念仏」など色々とありますが、基本的には「慈悲を心掛けて人のために動くこと」「自己中心を離れて譲る気持ちで生活すること」「悪口を言わずに怒らないこと」を考えながら、毎日少しでも「心から湧き出る仏の光」を意識して「真言を念誦する」ことです。
そして、数ある真言の中でも、光明真言はとても素晴らしい真言のひとつです。
この真言によって私たちは体中から光を発し、罪や煩悩をさとりの心に転換していけます。現世には安楽平安の境地を得させ、死に臨んでは必ず仏様の光によって善趣に赴くことが出来る、非常に功徳のある真言なのです。
慈悲を磨き身と口を心を整えながら日々に感謝して真言を念誦する生活には、絶対に間違いはありません。堅くそれを信じ、一歩でも二歩でも進んで参りましょう。必ず素晴らしい仏の光に満たされた穏やかなさとりが実現していきます。