प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

人それぞれ

'17.07.16

人には色々な性格や素質があります。
それぞれの短所や長所があると思いますが、本当は人に「短所」などありません。その性格や性質を活かしていないだけです。

弘法大師の書かれた『平城灌頂文』という文章に、


医者が見れば毒は薬となる
仏の智慧で見れば衆生は仏である
もともと衆生と仏の世界はひとつであり
差別がないからである

そう書かれています。

一見すると「毒だ」というようなものも、しっかりとその性質を見極めて活かせば、それは薬になります。同じように人の性質も、「これはダメだ」という部分でも、それをしっかり活かせば良いのです。

怠け者でいつもダラダラしている。でもそれはゆっくり歩く方法を知っていて、実は案外よくものを見ることができる人かも知れない。一所懸命にマラソンをしている人は、あまり景色を見ていません。

怒りっぽい、すぐ腹を立てる。「怒り」にはパワーが必要です。そのパワーを建設的な方向に向ける方法さえわかれば、人一倍、仕事ができる人になる可能性があります。

嫉妬深くて悪口ばかり言う。こういう人はよく他人を観察しています。また、悪口を言うのにも「言葉の力」が必要です。その観察力を自分自身に向け、言葉の力をうまく使えたら、素晴らしい表現力を得られます。

盗み癖がある。「盗む」には、状況判断やものの価値を見極める必要があります。それをよく活かせば、非常に細やかな観察力と明晰な判断力を持った人になれるかも知れません。

こういうことは「こじつけ」に見えるかもしれませんが、決してそうではありません。「長所」と「短所」は表裏一体、紙一重です。

ブランコも、後ろに大きく振れていないと、前に大きく振ることはできません。「悪に強い者は善にも強い」と言います。自分の「ダメなところ」ほど、使い方によっては「良いところ」に変えられます。

他人を見るときも同じで、「あいつはダメだ」「ろくな奴じゃない」と言って切り捨てたり、そこを「改善してやろう」とします。その時その場でそれがうまくいったように感じていたとしても、「特徴を抑えつけて、結局は長所をなくしてしまう」、つまり「角を矯めて牛を殺す」ことになっていないでしょうか。

釈尊・お釈迦様の御弟子さんにも、怠け者や殺人犯などがいましたが、後にはその性格をしっかり「善」に転換して行きました。短所をただ否定するのではなく、「どうしてそうなのか」を見極めて、うまくそれを使うように導いたのです。

平均的で規格化された工業製品のような「替えの利く人間」ばかりでは、家庭も社会も地域も発展しません。様々な人が、色々な特徴や性格で多様な役割を果たす。みんなが同じことをしなくても良いのです。「同じような人」だらけだと楽です。でも、そこには刺激も発展もありません。

もちろん、それぞれの特質や性格を「善く活かす」必要はあります。性質そのものには良いも悪いもないのですが、磨かなければ「煩悩」などによって大抵は「悪い現れ方」をしてしまいます。それを「善く活かす」ためには、しっかりとした考え方、慈悲と智慧の心が必要です。

その「考え方」の大切さを示すのが、仏教です。ですから皆さんも、ちょっとずつでも仏の教えを聞き、考え、実践していただけたら、きっと良い方向にものごとは進んで行くと思います。

まずは自分自身の短所を短所としてすぐさま否定するのではなく、その性質を良い方向に活かすには何をしようか、ということを考えてみるのも、また有意義なことかと思います。