प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

いのち

'17.03.28

この世の中には、色々な出来事があります。楽しい事もあるし、辛いこともあります。しかしいずれにしても、すべては過ぎ去りゆき、いずれ自分が死ぬときには、すべてを置いていかなくてはなりません。 
その時には、お金も地位も持って行けず、誰もついてきてはくれないのです。

そして「その時」がいつ来るのかは、誰にもわかりません。

弘法大師は『教王経開題』に「この身の脆きこと泡沫の如く 吾が命の仮なること夢幻の如し」、また『性霊集』で「古の人今見えず 今の人ぞ長きことを得ん」と述べておられます。
また、チベットの諺には、「明日の朝が来るのが早いか来世が早いか、そんなことは誰にもわからない」とも言います。

この限られた時間、限られた命を、私たちは美しく・清らかに生きなくてはなりません。
しかし、「死んだらおしまい」ではありません。
私たちは皆、目に見えない「いのち(「魂」と言っても構いませんが)」として生きています。この身体には限りがありますけれど、目に見えない「いのち」には限りがなく、必ず次の世界に続いていくものです。そしてこのいのちは、私たちの普段の行いや考え方によって色づけられて、どこまでも続いていくものです。

「病気」という言葉があります。

人はこの限りある体を持つ以上は、いつか病気になります。しかし、「病人」になるかどうかは、心次第です。体は病気によって辛いとしても、この心までが病気になる必要はないのです。
心は「いのち」の鏡です。
いのちはいつでも健康で、決して病気にはなりません。だから本当は、心は病気にならないのですが、体が病気になった時、「自分とは体のことだ」と考えてしまうと、「いのち」までが病気になったように感じます。しかし、「わたしたちの本体は体ではなく、目に見えないこころ・魂なのだ」とわかれば、人は病気になったとしても、病人にはならずに済むのです。

福楽寺のご本尊・薬師如来は、「病気を癒す功徳」をも持っておられる仏様です。信心により体の病を癒して下さることもありますが、より本質的なお働きは、「あなたは病気であったとしても、病人ではない」と教えてくださることです。心が病人でなければ、「あなたの本当の部分、つまりいのち(魂)」は決して病気ではないのです。

たとえ体が病気になったとしても、清らかに・美しい心で、慈悲の心で生活していくことで、必ず現世に福徳が得られ、来世には安楽が得られます。福徳と安楽が、薬師如来の約束です。
そして「福徳・安楽」の場所が、つまり「福楽の場所」、福楽寺です。

皆さんは、この「約束」を信じ、信心を確かにして、感謝と喜びを持って家族仲良く楽しく生活をしていくことで、必ずたくさんの「恵み」をいただくことができます。
そうして福楽寺の薬師如来は、千年以上もこの地で、人々の福楽を願いながら、ここにおられ続けているのです。