प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

議論無用の論証

'16.07.17

前回は「議論は無益有害」というテーマで、釈尊の聖句である『スッタ・ニパータ』からの文章を紹介しましたが、高祖弘法大師も同様の考えを持っておられました。
その言葉は、『性霊集十「理趣経答書」』にたくさん書かれています。

ざっと列挙してみましょう。

面の妍媸を知らんと欲わば 鏡を磨かんには如かじ
金薬の有無を論ずべからず

…………

心の海岸に達せんと欲わば 船を棹ささんには如かじ
船筏の虚実を談ずべからず

…………

毒箭を抜かずして空しく来処を問い
道を聞いて動かずんば千里いずくんか見ん

…………

双丸は以て鬼を却るに足れり
一匕は以て仙を得つべし
たとい千年本草大素を読誦すとも
四大の病いずくんぞ曽て除くことを得ん

…………

百歳八万の法蔵を談論ずれども
三毒の賊いかんぞ調伏せんや

…………

妙薬匧に盈てども嘗めずして益なし
珍衣櫃に満つれども著ざればすなわち寒し

…………

阿難多聞なつかしども是とするには足らず
釈迦精勤なつしかば伐柯遠からず

難しい単語もありますが、要は、「百歳八万の法蔵を談論ずれども 三毒の賊いかんぞ調伏せんや」…これに尽きます。
議論は有意義な場合ももちろんありますが、それ以上に有害無益な場合がとても多い。
「論議」という伝統も仏教にはあり、たとえばチベットや高野山、比叡山でも残っていますが、それも相手を選びます。自己顕示、勝敗、優劣などに毒された「議論」であるのなら、それらはすべて無駄です。法を明らかにするために「のみ」なされる論議には価値がありますが、現実の議論の99%はそうではありません。
その証拠に、議論によって信が「全体として」深まるよりも、怒りや惨めさ、嫌な思いが残るだけの場合がどれほど多いでしょうか。
真理探究の議論の「つもり」であったとしても、その意見の披瀝がエスカレートして優劣を競うようになり、相手を潰すことが目的となり、意見ではなくて人格攻撃に発展していくことも、とても多いように感じます。
自分がそうでなくても、相手にそういう気持ちを誘発してしまうものであれば、有害なものです。

有意義な、本当の「論議」「宗論」というものは、大切です。
でも、それは「いわゆる議論」にはほとんど見られない稀なものなのです。