प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

見解と論争

'16.07.16

論争は、無益・無駄です。

私たちは何事につけ「見解」「意見」「主張」があり、その相互合意や論争、摺り合わせ、時にごり押しによって、日常を生きています。宗教・思想・政治などというものでなくとも、日常のちょっとした行為や思いというものも同じです。「好き嫌い」もそうです。

そういうものが日常生活に存在することは避けられないし、時には「必要なこと」でもあるかも知れません。
しかし、そういう「見解」というものをよく考えると、そこに「高慢・自己顕示」の心はないでしょうか。「勝ち負け」の心はないでしょうか。自分の見解を否定されても心穏やかにいられるでしょうか。相手の心も穏やかに保たせることが出来るでしょうか。「自分」という心が「見解」を覆っていないでしょうか。

もしそのような心が少しでもあるのなら、見解を持って論争することは、無益有害です。

『スッタ・ニパータ』、釈尊の金口。

895
これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、──かれらはすべて他人からの非難を招く。また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。

896
(たとえ称賛を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることができない。論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、とわたしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。

897
すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴くのであろうか?

898
戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、誓戒を受けている。「われわれはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、<真理に達した者>と称する人々は、流転する迷いの生存に誘きこまれる。

899
もしもかれが戒律や誓戒を破ったならば、かれは(戒律や誓戒の)つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。

900
一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なき(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄であると」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。──安らぎを固執することもなく。

901
あるいは、ぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

902
ねがい求める者は欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も存しない者、──かれは何を怖れよう、何を欲しよう。