प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

信は荘厳なり

'16.07.11

私が高野山にいたときに言われたことのうちで大切にしている言葉として、

信は荘厳なり

…という言葉があります。

「信心・信仰」というと「心の世界」だと思われがちだけれども、それだけではない。荘厳(しょうごん)、つまり「きちんと仏前を整えること」こそ大切だ、ということです。
仏壇にしても寺院の本堂にしても、きちんと整える。それらひとつひとつには、すべて「意味」が込められている。「形式」は単なる「カタチ」ではなくて、森羅万象のあり方を表す「イコン」であり、それ自体が「真理」そのものである、ということです。

私たちは、心があります。その心というものは、現実世界に働くときには必ず何かしらの「カタチ」「働き」として現れてきます。「コトバ」というものも、形式です。立ち居振る舞いというものも、形式です。服装や慣習、文化、表情、すべて形式に則って、人の「思い」というものが現実に現れてきます。
それらはとても大切なもので、「ココロが大切だから形式はどうでもいい」とは、なりません。

仏法・世界の真実というものは、目に見えないものです。不可視です。それが根本的に大切なことは言うまでもありませんが、それらが「慈悲」の働きとしてこの世界に現れて来る時、それは何かしらの「カタチ」を伴っているのは当たり前です。
その「カタチ」の表現、約束事として、たとえば仏壇や本堂荘厳というものがあるわけです。
表裏一体なのです。

ですから、「カタチ」をいい加減に、雑に考えるという事は、その根底にあるココロというものも、知らず腐らせていき、いつしか「いい加減」なことになってしまうものです。
逆に、形を丁寧に整えることにより、ココロの世界も整えていくことが出来ます。

無論、ただただ形式だけやればいい、ということではありません。

その形式・カタチがしっかりとココロの世界と連動している、実は根っ子が同じものなのだと理解して、信じて、丁寧に整えていくこと。これが大切です。

カタチには色々なものがあります。文化や言語というカタチに色々なものがあるのと同様、仏教の心を示す形式にも、色々なカタチがあります。「このカタチでなくてはならない」という厳密な決まりは、ありません。しかし、フランス語と日本語と中国語とタガログ語は違っていても良いのですが、それぞれに文法や単語、文化的背景があってひとつの体系を為しているように、様々な「荘厳のカタチ」にも、それぞれに体系や意味があるものです。

それぞれご縁のある宗派の荘厳の仕方、あるいは自分なりの荘厳の仕方があるでしょう。
その表面上の違いはそれは結構として、いずれしても、丁寧に、「形式と言うものは心を示すものだ」と考え、ゆめゆめ「いい加減に」考えないようにしてください。

カタチは、何ごとにつけ、大切です。
ただしそれは豪華にしろとか、大きいほうが良いとか、そういう事ではまったく、ありません。念のため。心と形式は連動していて、丁寧に考えてそれを扱う、ということに尽きます。さこに豪華さやモノの大小はまったく関係ないのです。

「心の時代」「ココロがあれば形はどうでもいい」などという言葉に、惑わされないでください。