प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

伝統主義

'16.04.29

私は、宗教や「真理」を求める時に、いわゆる「新しい思想」は不要、という立場です。今まで人類が積み上げて来た思想的・宗教的営為の蓄積はたくさんありますが、それらでほぼこのような世界の解明は足りている、と思っているからです。
これをして「伝統主義者」と名付けられるのであれば、私は喜んで「伝統主義者」の看板を背負いましょう。

ただし、伝統主義というのは、いわゆる「伝統宗教」「伝統思想」を何の反省もなく継承・墨守していくこととは、違います。伝統主義者は、伝統を超越していくために、伝統主義の立場に立つのです。

仏教で言うと、たとえば「宗派」という伝統があります。
私たち僧侶は、大抵の場合、いずれかの宗派に属しています。真言宗や天台宗であれば1200年、鎌倉新仏教であれば800年。綿々と続いてきた伝統の中に属しています。
大切なことは、それぞれの伝統の中に立ちつつ、それを墨守するのではなくて、その伝統的世界観をしっかりと学び、他の伝統的蓄積をも横断しつつ、伝統の中で・伝統の中から、現代的課題に応える方向性を、時代とともに常に模索していく必要がある、ということです。

「新しい聖典」は必要ない。世俗の理論に過度に頼ったり迎合する必要もない。けれど、新しい方向性は常に必要とされる。それは仏教の全伝統を視野に置いて、限定された「私たちの伝統」を墨守せずに、常に全体的な仏教すべてを包括して自分自身の中で体系化しつつ歩む、ということが必要です。

思えば祖師方も、教判という作業を通して、このような試みをされて来たのだと思います。だからこそ、それぞれの時代に力を持ちえた。
だから、聖典は不変であったとしても、教判的作業・伝統の再構築再解釈は、個々の僧侶が常にしていく必要があるのだと思います。それは自分の属する宗派を否定することでは決してなく、むしろ自己一身に仏道を完成させるために必要なことなのだと思います。

今の時代、仏教は日本だけではなく、中国仏教・チベット仏教・インド仏教・テーラ、様々な「伝統の蓄積」にアクセスできるようになっています。これらの伝統も視野に置きながら、それぞれの「限定された伝統」に立脚しつつも、更にその内実を豊かにしていくこと、それが大切なのではないかと思います。
もちろんすべてを「同じ比重」で学ぶことは難しいし、私の能力では無理です。ですからある程度の取捨選択はありますが、少なくとも全体的視野は欠かせません。

これは決して「新興宗教」でもないし、徒に「新機軸を打ち出す」というものでもない、まさに伝統を超越していくために伝統主義の立場に立つ、ということなのだと、私は考えています。

私個人としての方向性も模索中でありますが、少なくとも真言密教・浄土密教信仰の伝統に縁あって置かれた者として、その立場を認識しつつ、たとえば阿弥陀信仰の系譜をチベットや中国の伝統にも放り込み、日本の宗派に流れて来た「限定された真言宗学・浄土信仰」に単純にそのまま依るのではなく、釈尊以来の全仏教の流れの中で密教的世界観・肌感覚を大切にしながらも、丁寧に自分の中で「伝統」を再構成しつつ積み上げていく…ということができればなぁ、と。
そう思っています。

そうして幸いなことに、真言宗はそういう立場を許容してくれる宗派だと思っています。
全体としての真言密教的世界観を受け容れている限りにおいて、具体的な個々の思想内容によってすぐさま異端審問のように正統異端だの異安心などと言って多様な立場を排撃するようなことはせず、その多様な思想を活かしつつ、内容を豊かにしてきた伝統があります。
そのような伝統は墨守に値する伝統だと思いますが、私が真言宗に属しているというのは、誠に僥倖であったのだと最近、よく思う所です。