प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

ことば

'18.10.25

世尊はこのように言われた。
「ビクたちよ! 四つの特徴を具えた、よく説かれたことばがある。智者たちからみて、悪く言われたのではなく、過ちなく、非難すべきものではない。
ビクたちよ! ビクはーー
よく説かれたことばのみを語って、不快なことばを語らない。
理法を語って、理法に反することを語らない。
喜ばしいことばを語って、喜ばしくないことばを語らない。
真実のみを語って、偽りを語らない。
ビクたちよ! 実にこれが四つの特徵を具えたよく説かれたことばなのである。智着たちにとりて、不快なことばでもなく、過ちなく、非難すべきものではない」

<中略>

ヴァンギーサは……師を褒め称えた。
「安らぎを得、苦を終わらせるために説かれたブッダの安らかなことばは、実に、さまざまなことばのうちで最高のものです」と。

スッタ・ニパータ「見事に説かれた経」序・454

…………………………

僕自身、昔からけっこうバッサリ喋ってしまうことが多く、原理的な立場でツッコミをしてしまいがち。あながちそれが間違ってるとは思わないのだけれど、残念ながらそういう言い方で誰かの考えを変えさせたり、心服させる、ということはほとんどない。つまり、自己満足に過ぎないわけだ。

そもそもどうして他人の考えを変えさせようと思ってしまうのか。

大上段から文句を言う時には、いずれにしても相手を自分の思想に染めたいか、それを見ている第三者に自分の正しさをアピールしたいか、何にせよマウントを取りたいか、だいたいがそのいずれかである場合が多い。

特にSNSなどそうだ。

だいたい、実際の面識すらない者同士で何を争うのか、どうしてマウントを取ろうとするのか、いちいち自己アピールせなあかんのか。しかもタメ口…ならまだいいけれど、教え諭してやろうとか、喧嘩腰とか、そういうものが本当に多い。
僕自身も油断するとそうなってしまう場合がある。
しかし、こういうのは不快なだけで実際、意味があまりない。

文章など所詮は書かれたことしか意味していない。
その限られた範囲のことで相手の何がわかるか。言われていないことは隠されている。そういう基本的なことがわからないまま、自分のフィルターで勝手に「読み込んで」読み間違えて、それでマウントを取ったつもりでふんぞりかえって。

僕が交流サイト(まぁ2ちゃんねるから始めたわけだが)なるものを使い始めて約20年になるけれど、僕自身まったく進歩していないし、書き込む人たちもそう大して進歩はしていない。
なんか自分にがっかりしながら、この釈尊の言葉を読みました。

皆さんはどうですか?