प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

智慧と慈悲

'18.10.15

口先に説くだけで実行しなければ、<道>を体得するわけがない。たとえば、高い山に登ろうと思えば、道に迷わないように、また足を傷つけないように気をつけて、歩いていくだけでよい。そして、歩き続けて休まなければ、山頂に達する機会をもつことができるようなものである。このごろの者が、仏法を体得することができないのは、ただ教理の深浅や教説の優劣を論ずるだけで、実際に修行しないからである。たとえば、高い山に登ろうとしておりながら、麓にいて山上の景色の素晴らしいことを話したり、あるいはまだ一歩も登らないのに山道の曲折を論じたりするようなものである。おそらく話しているうちに、日はとうに暮れてしまうであろう。

『十善法語』

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実践しない知識は無意味である、という当たり前のことが書いてあるだけですが、ちょっと違う角度から考えてみたいと思います。

仏教は「智慧と慈悲の教え」と言われます。
智慧と知恵と知識の相違は大きいのですが、ここで言う「智慧」とは要するに、「縁起・無自性・空」を確実に覚する、ということです。我・我所執を立てない。分別心を遠離することです。
まずこれが重要です。
そうして、この智慧あるところ、自然に分け隔てがあり得ない苦を脱した境地が現前し、大慈悲心が出てきます。
もし大慈悲心が出てこない、やはり私とあなたは違う別のものだという感覚が湧いてくるならば、智慧はまったく完成されていない、ということです。これは知識をどれだけ積んでも、分別心を基本とした知恵をいくら発達させても、届かないのです。

俺は仏教がわかってる、空も縁起も理解している、といくら誇ったところで、慈悲の行動(身口意)にそれが繋がれていかないのであれば、何の役にも立ちません。

実践というのは、何も念仏や座禅が実践ではないのです。僕たち山に登らせるのは、大慈悲心なのです。それ以外のものは、たとえば地図であったり食料であったりアイゼンであったりテントであったり資金であったり…それらは不可欠ですが、それをいくら揃えても山には登れないのです。大慈悲心という「この脚」を動かすことが根本です。

脚を動かして実際に登ること、慈悲の心、愛語、行動こそが、仏法なのです。あそうしてこの登山するという脚を動かす動機が智慧であり、それ以外は助縁です。無論すべて重要ですが、根本を見失ってはならないのです。