प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

禅定波羅蜜

'18.03.07

いかんが衆生は仏道を去ること甚だ近くして自覚すること能わざる 故にこの因縁を以て如来世に出興して 還って是くの如くの不思議法界を用い種々の道を分作し 種々の乗を開示し種々の楽欲心機に随って 種々の文句方言を以て自在に加持して真言道を説きたまう

なぜ衆生は仏の近くにいながら仏の自覚ができないのだろうか。如来はこの疑問に応えてこの世に出現し、不思議なる仏の世界の通じる様々な道を作り、多くの教えを示された。様々な要求に応じた文言と、自在の加持力による真言の道が説かれているのである。

「十住心第十」

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真言密教において根本となる仏は、いうまでもなく大日如来である。が、例えばこれをギリシャ神話におけるゼウスや、日本神話の天照大御神のような、多神教的な神々のパンテオンの主宰者のように理解してはならない。得てして、そういう理解で、大日と他の尊格、観音菩薩や阿弥陀如来、薬師如来や普賢菩薩、文殊菩薩、不動明王などを相対的に配置しようとしている場合がある。
例えば、母としてのAさんと、妻・娘・友人・店長・お隣さん・絵画教室の生徒・学校の先輩・後輩・同級生・たまに街で見かける美人・元バレーボール部のAさんと、そのどれが本物のAさんであるか、どれがAさんの主宰者であるか…を問うようなものだ。実際には、母として、元バレーボール部員の経験を同じ学校の後輩に当たる息子に友人のように語ることもあろう。
実は「Aさん」という何かの実体があるのではなく、状況や考えに応じて、その場その時に「●●としての」Aさんが仮構されて現れているに過ぎないのだ。これは、自己認識の領域でも同じことだ。ただその臨時に設定されている場のことを、大日如来と呼び、個別の様々な現れを諸尊と呼ぶに過ぎない。
教説も同じだ。
だから、どの尊格の仏菩薩を念じようと、それは同じ言語以前の空なる勝義諦の現前顕現なのだ。そこをこそわかれば、ありとあらゆる世界の森羅万象が三宝である。
ただし、ぼけっと座ってそうぼんやり「思っている」だけならば、それはあなたにとってはまったくの多元的でまとまりのない諸々の雑多な現象に過ぎず、その限りでは苦の輪廻は終わりはしない。
ここを繋ぐものが重要であり、それが禅定波羅蜜である。行である。実践である。