प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

いつ死んだか

'09.08.23

仏教においては、寿命と体温は相即しているので、体温がある限りは生きているのですよね。つまり、何時何分死亡、ということは言えない。徐々になくなっていく体温を見守りながら、みんなでゆっくり見送る。「いつ体温がなくなったか」は、明確には言えない。
だいたい、「いつ死んだか」ってのは、時代や文化や都合によって案外あっさり変えられてしまう。脳死か心臓死かなんて、そういう「都合」で基準を決めよう、ってな話であって、つまり客観的で普遍的な「死の瞬間」なんかありはしない。南洋では、腐ってもまだ死んでいない、というところもあるらしいし。いつ死ぬんだったかは忘れたけど。
まぁ仏教では体温は寿命とイコールなので、医者が「死んだよ」と言っても、実はほんとうにはまだ死んでないんだよね。もっと死には幅がある。
脳死については、だから仏教の立場では、少なくとも「脳死は人の死では絶対にない」と言える。ここは認めてはならない。心臓死や呼吸停止ですら死とは認めないのだし。
でも当人の意思で「捨身布施」をすることは良いのだと思う。利他のために自分のものを投げ出す動機であれば、これは自殺ではないのだし。でもそれは数ある布施行のひとつであり、誰も強制されるものじゃないし、まして法律で規定されたり定義されたりするようなもんじゃない。

上記の経証の一例

中部経典43
(五根の拠り所は意であり、意は寿命によって存続し、寿命は体温によって存続し、体温はまた寿命によって存続する…趣意)ゆえに、「友よ、寿命と体温と意識という三つの事柄がこの身体を離れるとき、この身体は棄てられ、投げ出され、心のない木片のように横たわる」

ゆえに、「死の瞬間=死有」とは、断じて呼吸や心臓の停止ではなく、まして脳死でもなく、蝋燭の炎が最後に小さく弱くなり消えたその瞬間、体温が低くなりそうして完全にまったくその暖かみが消えてしまうその刹那のこと(その刹那は第三者には「客観的な確定」はできない)であり、実際問題としては、見守るものが間違いなくそうなったと受け止めたその瞬間のことであろう。
死ぬとは、機械や医者の宣告によって決められるのではなく、徐々に消えていく寿命=体温の変化の中で、少しずつ現成していく事態の推移そのもの、そしてそれを受け止めていく残されたものの相互の関わりが、死ぬと言うことではないだろうか。