प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

赤い花

'15.08.23

厭わしい言葉が聞こえる、見たくもないものが見える。それに心がかき乱される。
心地よい言葉が聞こえる、麗しく美しいものが見える。それに心が羽ばたきゆく。
これは果たして正常な事態なのか。
空気の波動や光のスペクトルという特定の意図なきニュートラルな物理現象が、感官を通して電気信号に転換されて脳内で再構成され、何かしらの映像なり音声を、まるで外部に「それそのものが」あるかのように誤認させるわけだが、たとえば「他人の悪意や善意」なるものも、つまりは再構成されたナニモノかでしかないならば、いったい僕たちは何に関して落ち込んだり喜んだりしているのだろうか。
さらに、光や波動も縁起性の現象であり空性であり、僕達の感官や電気信号も同様であり、ならば「心」などもどこにも実体はない。唯物論? そうではない。モノや「物理現象」などという事態も空である。
さて、僕たちは一体無常無我たるナニモノに無常無我なる心を括り付けてカタチあるものと妄想し、一喜一憂しているのか。
僕たち、とは誰か。どこにそんなものがあるのか。「赤く美しい花」などどこにあるのか。赤とはなにか、美しいとは何か、花とは何か。「どこ」という言葉に意味はあるか。
妄想された形成物を超えた「それそのもの」をこそ、何と言うか。
ないのか、あるのか…と言ってはならない。
有無の概念に縛られたらば、一気に赤く美しい花だ。あるいは、腐った厭わしい死体だ。

ひっくるめて、僕は僕なのだ。
世界は、美しく厭わしい。
これは、あるようにしてあり、真実だ。