प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

コトバは恐ろしい

'15.08.24

言葉は難しい。
今は言葉が技術になり過ぎている。技術というのは、解答があるということだ。概念を実在化して取捨選択をして、明快で不動の正解に辿り着けるという信念ということだ。
だから仏教にしても何にしても、既成の概念のナニモノかを設定して、それを取るか取らぬか、という思考の軌跡を取ってしまう(科学や政治的言説など典型)。
しかしこれは、少なくともおよそ真実を明かしたいという動機の哲学や宗教的立場にある者にとっては危険で、「仏教的にはこう、そうだけどこの場面では別種の論理を使う」などという技術的な思考回路が発動しても、そこにあまり疑問を抱けない。
言葉は技術ではなく、現実をあらしめる力能であり、もっと得体のしれない、認識すべてを成立させて「しまう」全体的なものじゃないか。それは、解答のあるような単純な一直線ではないし、適宜に取捨選択して一律の解答を自由に構成させるような性質のものでもないのだけど、今はそんな言葉しか聞かれない時代。

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コトバとは、その性質的に分割作用しかない。「赤」と言えば、赤と「赤以外」を分節していく。すべてそうやって、任意に分節しながら「世界」を形にしている。「見る」ということは「見る者」と「対象」を対置して、「それ」の片面だけを見ているに過ぎない。そして「何かを見ている」ならば、その「何か」を「何かじゃないもの」と任意に切り離して便宜的に標本化しただけだ。
それは「死物」だ。
死ぬ前の「それ」…「それ」と言ってもならない「  」、「赤」と「赤以外」に切り分けてしまう前の「  」にとって、世界とは如何なる意味を持つというのだろう。
持ってしまえば、ナイフが入る。持たなくてもまたナイフが入る。持つと持たないは、互いに世界を分け合っているのだから。
コトバ。
この他愛もない存在。我々を縛る鎖。我々に垂らされた蜘蛛の糸。
恐ろしい。