प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

〇〇らしく

'21.08.23

釈尊も仰せのように、「人はバラモンとして生まれるのではなく行いによってバラモンとなる」「バラモンと人は言おうとも、耕すものは農夫でありバラモンではない」「人は、為したとおりの者となる」。
ア・プリオリに人は何者かではなく、そのような実体的なものは何もない。どこかに「仏教」なるものがあって、それ信じて人は仏教徒になるわけではない。そのように行うから仏教徒として「現在ただあり得る」だけである。すべてそのようなものだ。そうして人が「どのようにあるのか」については、万人通用のマニュアルなどはない。犀の角のように、真剣に思考して、真剣に行動して、「そうあらざる得ない」ところを現して…その時にそこにダルマがあれば、あなたは仏教徒であったことを知る。神がいたなら信仰の道に入るだろう。虚無なら虚無なのである。
「おまえは●●なのだから●●らしく」という世間の言葉に惑わされず、歩み、希望か絶望に辿り着こう。しかしいずれにしても孤独を覚悟した真剣な歩みは、なにかしら真実の姿を必ずあなたに現してくれる。それが真実なのであるから、恐れるな。

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【別稿】

日本人「だから」とか、仏教徒「だから」とか、そういう視点であまり自分の「考え方」を規定したことがない。そういう考え方は渡世のためには有効だけど、自己一身の存在や生死の問題にはほとんど関係がないし、意味もない。仏教にしても、それは思考の前提ではなくて、ある種の結果だから。
もちろん現代の日本に生まれ暮らし、日本語を使って生きている以上は、その枠組みに認識の形態が限定されてしまっている面はある。だからこそ、その部分に自覚的になるために、日本とか(日本)仏教を学ばなくてはならないけれど、最終的には、そういう文化的認識モデルに寄りかかってはならない。
「それ」を使うしかないのだから使うのだけれど、常に崩しながら使う。言葉や規認識モデルを疑いながら、幅広く思考の枠を広げつつ根源的に考えて見ていこうと、少なくとも意識し続ける。
そうすれば、誰であれ「本音と建て前」の齟齬を消していくことができる。そうして、どんどん生きにくくなり、どんどん世界が深く輝いてくる。