प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

WWBD?

'15.01.22

御存じの方もいらっしゃいますが、私は元クリスチャンです。所属は福音派なんですが、北欧系で穏健派に属する教会で洗礼を受けています。ブッシュ大統領で有名になった南部バプテスト系なんかも福音派ですが、あそこよりはちょっとだけ穏健(笑)

で、当時(今もあるのかな?)、「WWJD?」という文字が書かれたリストバンドやグッズが流行ったのですが、この文字は「What Would JESUS Do?」という文の頭文字で、「イエス様ならどうするか」という意味です。つまり、日常の色々な問題や出来事、悩み、苦しみあるいはその他の事について、自分の思いのままに行動するのではく、「イエス様ならどうするか」と自分に問い、聖書を常に開いて聖霊の導きにより行動する…というような感じのことなんです。プロテスタントだけじゃなくて、カトリックにもそのものズバリの「キリストに倣いて」という本がありますが、これは実は、仏教徒にとっても、非常に大切なことです。
どういう意味かと言うと、この「WWJD?」というのは、「現在」「私はどのように動くべきか」ということを、2000年前のイエス・キリストを「過去の人」ではなくて「現在ここに呼び起こす」ということに他なりません。そうして、現在の問題をイエス・キリストを通して考えていくこと、です。
生きた宗教であるか否かは、実はこのことが意識されているかどうか、ここに尽きます。

釈尊の言行、弘法大師あるいは祖師方の言行を「過去の偉大な人の言行」と捉えて、現在目下の緊急の課題に「呼び起こす」ことをしなければ、それは生きた信仰とは言えません。これは何もすべて盲従しろということでは勿論なく、少なくとも「仏教徒としての立場」を自覚する者であるのなら、釈尊や祖師方のお考えを「呼び起こし」「聴聞し」、然る後に自分がどう考えて動くか、を決定しなくてはならない、ということです。

たとえば「イスラム国」。
もし釈尊が、祖師方が現在おられれば、どういう意見を述べるでしょうか。
たとえば「思想」。
西洋思想、インド思想、様々な宗教伝統や科学など、知識だけは莫大に増えています。今この時代に祖師方がおられれば、それらの思想や学問をどのように消化し、どのような言動をされるであろうか。当時の書物を安易にトレースして無理やり現代に当てはめる「保守主義」は、「伝統」「文化遺産」としては立派ですけれど、生きた宗教としては失格でしょう。
しかしそれは決して過去を捨てるとか軽視するということにはならず、釈尊や祖師方が本物であれば、驚くほどその本質は揺れ動かないのでしょう。仏教に限らず、偉大な宗教思想は視点が永遠の相に据えられているのですから。そこが、「進歩」を宿命とする科学や社会思想と性質の違うところです。

「WWJD?」をキリスト教に限定してしまうのはもったいない。
私たちは常に「What Would BUDDHA Do?」を意識しましょう。あるいは真言宗徒であれば「What Would KUKAI Do?」でもいいし、龍樹でもいい、何なら名もなき大乗経典感得者でもいい。
そうしてこそ、形式だけではない、本当の宗教的生活というものの基礎が出来てくるのではないでしょうか。

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【別稿】

昔、偉そうにも「クリスチャンはたくさんいるが、神を求めている人は少ない。神を求めている人は少しはいるが、イエスの足跡を踏む人はほとんどいない」みたいな事を神学生に言ったことがある。
今これを思い返すにつけ、仏教でも事態はそう変わらないのだろう。もしイエスの、あるいはブッダの足跡を踏むならば、教義ほどの違いは我々にはないことに恐らくは気づくだろうに。
好きだった本に、トマス・ア・ケンピス『キリストに倣いて』というのがあった。好きな言葉に what would JEJUS do? というのもあった。
ブッタに倣い、 what would BUDDHA do? を問いながら、つまらない表層の垣根を払いながら、ただただ真実に歩きたい。
人生には、そんなに時間はないんだから。