प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

仏教と仏教学

'17.12.13

近代仏教学は「史的釈尊」を追い求め、文献学で作り上げた虚構の「原始仏教」を提起したが、結局はキリスト教へのカウンターとしての19世紀ヒューマニズムの風潮を引きずり、「痩せ細った釈尊」・矮小化された「本当の仏教」イメージを固定化してしまった。
確かにその作業は意義があるし、大切だ。僕たちも最初期の仏教、釈尊の実際の生き様には関心がある。
しかし宗教現象としての仏教とはそんなものではなかっただろう。削ぎ落として原型を復元するのは極めて学者的な関心だ。
仏教徒としては、実はそのやり方にはいささか懐疑的にならざるを得ない。

包丁がある。

かつて包丁は「肉教徒」により肉を捌くために使われていたとしよう。しかし「野菜教徒」がそれを利用して野菜を切り始めた。それまでは手で割いていたわけだ。
さて時代が下り、包丁で野菜をきちんと切り分ける手法がたくさん考案された。
その時、料理教評論家が「野菜教は包丁を肉教徒から盗んだから、不純だ。原始野菜教では手で割いていた」だから「包丁は認めない」としたらナンセンスではなかろうか。野菜教徒としては、如何に野菜をきちんと切り捌くがが大切なのであり、道具としての包丁はあくまで便宜であり、便利だから使っているだけなのだ。

仏教は歴史を眺めてみると、このような試行錯誤の歴史だ。カタチはさまざま変わるし、手法も他の要素を取り込む。
しかし、野菜を美しく効率的に切ることが眼目であるように、仏教もさまざまな変遷を辿れど、核は変わらない。
少なくとも仏教徒としては、そう考えている。

だから、削り落として原型を復元しよう(これも無理な相談だと思うが)というより、如何に仏教の理想を実現するか、にしか興味がない。そのためにはさまざま試行錯誤しながら多様な手法を取り入れ展開する。

僧侶とて近代仏教学には恩恵を受けているし、そこで提示される論は貴重な教示だ。文句なしに面白いし、役に立つ。
しかし、仏教徒としてはおなじ仏教に関わるにしても、やはりアプローチは違って来ると思う。
学者的なアプローチだけで仏教をかんがえると、たぶん、何か大切なものが抜け落ちてしまうんではなかろうか…。