प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

深信

'17.12.04

興教大師覚鑁上人という方は真言宗の歴史上、弘法大師に次ぐ重要性を持った方であると思われます。この方は数々の著作をなされていますが、今回は「真言密教を実践するものが心得るべきこと」について書かれた(恐らく)メモを紹介します。これは覚鑁上人自身に、あるいは真言僧に対して述べられたものでしょうが、信心や修行をする者だけでなく、誰にとって参考になるものですから、読んでみましょう。
現代語訳は僕がしましたので、間違っていたならばご指摘ください。

『末代真言行者用心』

経にこのように説かれている。

「どのような心を起こすものが、覚りを成就するのだろうか?」と問われたならば、それは「深信ある者がそれを成就するのだ」と言える。ではその「深信とは何か」であるが、それは「長く修行してまったく成果が現れずとも、仏法に疑いを抱かず止めてしまわない」、その心を「深信」という。このような人が必ずいずれ覚りを実現するのである。
あるいは本尊が行者の心の成熟度を試してみようと、またあるいは諸天の神々が行者の信心の度合いを見てみるために、我々の覚りへの進歩を一時的に抑える場合がある。また、自分自身の能力不足や宿縁が回らないために覚りの方向に迷い目の前の優れた道を見逃したり、悪魔などのような妨げをなすものが邪魔したりする。
様々な因縁で信心しても修行してもまったく進歩も実感もない場合があるが、そこで疑ったり信心をやめず深信を持ちこつこつ実践を続けたならば、必ず成就・往生・成仏は間違いないのである。

私たちは普段の生活や仕事でも、「すぐに結果が欲しい」「答えを見たい」となります。我慢ができないものです。
やるだけ無駄・無意味ではないか、やればやるほど却って悪くなってるのではないか、そうやって、先が見えないと「やらない理由」「やめる理由」を探し始め、「疑わず、やめない」という心がバカバカしくなってしまいます。
もちろん間違った信心や考え、良くない仕事や向いてない仕事はあります。それはきちんと見極めなくてはならないですが、「結果が出ないから」というだけの理由で見切ってしまうのは、結局は何も成し遂げられないことにつながります。

釈尊は6年間、苦行をされてまったく成果がありませんでしたが、覚られた後には決して無駄な6年間ではありませんでした。様々な出来事がありましたが、投げ出しませんでした。
私たちも地道にこつこつ、結果だけに右往左往せず、なすべきことをやり抜きましょう。そして、深信を抱いて手を合わせて参りましょう。