प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

伝授とは

'18.03.02

秘蔵の興廃はただ汝と我となり 汝もし非法にして受け 我もし非法にして伝えば すなわち将来求法の人 何によってか求道の意を知ることを得ん

密教の興廃は汝と私にかかっている。もし非法に伝授したならば、これからの弟子は求法の信頼性に迷ってしまう。

「性霊集十 理釈経答書」

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釈尊は「師に握り拳なし」と仰せで、ウパニシャッド的な秘伝の一子相伝を否定した。ではこの弘法大師の言葉をどう解するべきか、よくよく考えるべきである。

世の中を見るにつけ、仏教に限らず、カルトや新興宗教には、聖典の言葉を自由気儘に取捨選択して勝手な文脈に繋げ、原意とは真逆であったりまったく異質な解釈をしているものがある。そうして信徒を集めて騙し(善意の場合もあるから厄介だ)、そんな様々な我流宗教が花盛りである。
しかし如何なる伝統宗教にも、浅はかな切り貼りではない思索や信仰の積み重ねがあり、実践の厚みがある。これは手前勝手な考え方や「独学」ではなかなか身に付くものでもないし、気付くものでもない。
そうして、「ある意図」を持って宗教に近づく者も古今東西、多くいる。
つまり、教えを説くには師が必要なのだ。弟子の是非を見極めずに誰にでも何でも説けばいい、というものでもない。

釈尊の場合も、対機説法と言われ、万人にすべて同じことを説いたわけではなく、相手の理解力や環境や性質によって、説き方や内容を変えている。もちろん浅深の相違はあっても一味の水であることに違いはないが、教えには順序があるし、説くべき説くべからずは個別に見ていく必要がある。総花的に語るものは非常に、一般化された原則の初歩である。
このことを極めて厳格に考えるのが、いわゆる密教の立場であり、現在でも巷に出回る「密教書」に、すべてが書かれているわけではない。口伝は生きている。

しかし間違ってならないのは、それらの秘められた教えは決して「一子相伝の真実の神秘的教説」ということではない。すべては公開されているのだ。ただ僕たちはその見方に習熟していないから、誤って受け取らないように、その見方を対機的に師は導いてくださる。もしそれなくして、世俗の思想回路を修正せずに本を読んだり体育会系的な実践だけ重ねたとしても、まったく無意味有害になる。

本当は、秘密など何もない。
僕たちの目が開いていないだけだ。
師弟の伝授や教戒とは、ここの橋を渡すこと。

だから弟子は師を間違えると地獄に堕ち、師は弟子を見極める義務がある。