प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

狂酔の人

'16.11.28

▲ 痛狂は酔わざるを笑い 酷睡は覚者を嘲る

▲ 哀れなるかな哀れなるかな長眠の子 苦しいかな痛いかな狂酔の人

およそ真言宗僧侶であれば知らぬ者のいない言葉。
弘法大師聖語です。

僕たちはただでさえ無明に眠り、煩悩に酔っています。
そうして錯乱して、却って酔わざるべしという志を笑い、
覚りを期するという志を忌避しています。
覚り、覚者というものの存在すら疑っているかも知れません。

僕も常に酩酊泥酔して、日々を虚しく消費しています。

これだけでもう十分じゃないですか。
更にこの上、どうして物理的に酔うことを敢えて求め、
自らの時間を浪費し、能力を麻痺させる余裕があるのでしょうか。
死に向き合う時間はもう来ています。
明日の朝を迎えられる保証など誰にもない。

盲者が盲者の手を引いても、ふたりして穴に落ちる。

僕もまだ目が開かない。
ならばせめて、覚者の御言葉を学び、穴のありかを頭に叩き込み、
何度も歩くべきルートをシミュレーションすべきではないでしょうか。
自分の出発の時は迫っており、また僧侶は日常に人に道を示さねばならない。
穴に背を向けて宴会をしている場合だろうか。
それで、他人にどのような道を示すと言うのだろうか。

少なくとも僕は無能で怠け者です。
人の3倍5倍の時間がないと、人並みに仏教も出来ない。
目が見えないのだから、毎日、もがいています。

▲ 日に一日を慎み 時に一時を競い 孜孜として鑽仰し 切切として斟酌せん

日々に慎み、時間を大切にし、しっかり聖道を研鑽し、善悪を弁えるべし。
これは、弘法大師24歳の御言葉です。
僕たちは今、何歳でしょうか。

時間がない。
時間がない。
すべてを捨て去る時は、もうそう遠くない。