प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

格義仏教と現代

'16.11.14

格義仏教、という言葉があります。

まず中国仏教の歴史を超簡単にまとめますと、

2000年前に中国に仏教が伝わって来る。
外来宗教を中国に根付かせるため、あるいは理解するためには既存の概念で「解釈」しないとよくわからないため、道教を基本にして仏教を解釈する。ブッダ=仙人、空=無、等々。こうやって、仏教を中国人的な思想の枠内で解釈するのを「格義仏教」と言う。
次いで、徐々に経典が翻訳されていくわけだが、漢王朝崩壊後は社会情勢が不安定の為、中国の南北が分断されてしまう。北は胡族も多くまた西域との往来も盛んなため指導者も得やすく、禅定などの実践的な方向が盛んになる一方で、教理研究は軽視される。南は逆に、西域からの僧侶も少ないため、文献研究が盛んとなり、教理的な発展に偏る。
次いで隋による南北統一が起こり、南北が通じて行と学が融合的になる。代表は天台大師など。
唐代には更に仏教研究や実践が興隆して華厳や密教も盛んとなり、中国仏教の最盛期となる。しかし会昌の破仏などの弾圧により徐々に仏教は衰微し、落ち着いて教学研究をする時代ではなくなり、また文献の収集なども唐代後半からは難しくなったため、そこにあまり頼らない禅と浄土教の隆盛になり、華厳宗などの揺り戻しもありつつ、その傾向が現代まで続く。

…とまぁ、そういう感じです。
最初の「格義仏教」は、隋に至って完全に払拭されて、真に「中国仏教」となった…と、一般には言われます。

日本においても、だいたい隋代くらいに日本に仏教が入るわけですが、当初は神道や土着のカミ信仰によって仏教を解釈していました。奈良時代になって中国の南北朝時代の如く発展し、平安に至って隋代のごとく、仏教を仏教として考えるようになり、「格義」の時代を脱した…と、こちらもそう描写されます。

まぁ、仏教史として「それはそうだな」ということで、別に不審はないのですが、この「格義」というのは実は根強く、現代でも行われています。
つまり、「ある時代の世の中の通用の価値観・パラダイムを根底に据えて、その視点で仏教を取捨選択して、経論の記述よりも社会常識や通用思想を重視しながら、仏教を改変しつつ受容する」傾向を「格義」と言うのであれば、今の仏教もまったく「格義仏教」を一歩も出ていないわけです。
唯物論的科学パラダイム、近代人権思想パラダイムという「疑いなきパラダイム」に沿う仏教を自由に構築して、それを正統な仏教として宣伝する。経論よりも、その「格義」された仏教を「合理的」「現代的」「人権的」と言って採用するわけです。
どの時代でも、人々は「時代の子」ですから、現前の「格義」に気付かないのです。あまりにも「当然の価値観」ですから、仏法よりも「常識」を重視するのです。
この点、古代中国や古代日本も、現代の世界も相違ありません。

真実の仏法は、経論にあります。

時代的な価値観やパラダイムは、それはそれとして尊重すべきですが、そういう流動的なものに沿って仏法を改変してはならない。
僕は、非常にそういう点で、今の世界の仏教界のあり方を危惧しています。
特に日本。