प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

殺生

'11.10.25

ダライ・ラマ法王が高野山と大阪に来られます。
が、私は諸般の事情で残念ながら行けません。大阪講演に関しては実家の母親が行くそうですから、あとで感想を聞こうと思っていますけれど。

さて、ダライ・ラマ法王の講演と言えば、一昨年くらいに北九州に来られた際、これは近場ですから私も行けたのですけれど、思い出す話があります。いわゆる「殺生に関わる職業」についてです。
北九州講演の際に法王は「漁業や狩猟は殺生だからやめたほうがいい」というお話をされたのですが、質問タイムの時、ある僧侶が「それは職業差別ではないか」という事を述べていました。
私は原理的には法王の意見のほうが正しいと思っていますし、件の僧侶のような「ヒューマニズム」は仏教的にはちょっと違うかなぁ…と感じるのですが、しかしこの問題、難しい問題を孕んでいます。

原理主義的にたとえば「漁業は殺生だ」というのは、そりゃ確かにそうでしょう。私たち僧侶が釣りをするのは避けるべきは当然で議論の余地はありません。まして趣味で…というなら、尚更。
しかし現実に漁師町というのがあり、先祖代々、それを生業として生きている地域・人々がいます。私の住職している地域もそうです。少し内陸に位置しているうちの檀家に漁師は一件しかないのですが、ほんの5分も車を走らせれば、そこは漁師町になります。
そんな地域で、「漁業は殺生だ、賤業だ」などと言えば、布教も伝道もできないでしょう。現実にみんなを「廃業」させるなんて、不可能です(商売にならないから自然廃業状態…というのはありますが…)。
いま、東北大震災がありますが、石巻や気仙沼に行って、復興に努力している漁師に向かって「いい機会だから悪業を作る漁師はやめましょう」などと言って、果たして支持をえられるでしょうか。仏教が忌避されて、逆伝道になりかねません。

同じ講演会で、法王は「私は肉を食べます」とも言っています。
「菜食主義者になろうとしたが、体調を崩したので断念した」ということだそうです(チベット人は代々の肉食系民族だそうですから、体質的な問題もあって菜食が難しい人も多いようです)。
ならば尚更、「殺生」を生業とする人を単純に批判することは難しくなります。社会の実際を知らない青臭い出家比丘なら平気で批判するのでしょうけれど、私のような居士法師であれば、「自分で殺していないものはOK」と言いながら肉魚を食べ、一方でその従事者を否定するのは、自己矛盾と言うべき部分が確かにあるのだと思います。

とは言え、漁業や畜産が殺生の業であることも事実で、仏教者として真摯にここをどう考えるのか、非常に難しい問題です。原理原則で突き進んで解決する問題ではありませんが、しかしカルマの問題、十善戒の問題を軽く考えていいわけでもないでしょう。
自分が菜食主義になったら相手を批判できるか…という単純なことでもないですし。それにそもそも、農業だって殺生はつきものですから。