प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

居士仏教

'11.10.01

よく、「大乗仏教は在家起源だ」という意見があります。まぁ平川彰先生の影響が大きいのでしょう。
で、「しかしそれは嘘だ、間違いだ、白昼夢だ」「大乗運動も出家比丘起源だ」と指摘して、「大乗在家起源説は明治以来の形骸化した日本仏教を擁護する理論であるが、既に破綻した」として、日本仏教を弾劾して悦に入るひとがいます。結構たくさん。

確かに、平川先生の説はちょっと古いので、それを攻撃する人に理があるように、一見は思えます。が、私はそれでも大乗は居士仏教が筋だ、という主張は曲げません。
まず、歴史的経緯はともかくも、その思想の帰趨は僧俗の本質的区別を廃する方向にあることは明白だからです。在俗では絶対に覚れない、という方向は、少なくとも大乗仏教のメインラインの思想ではないはずです。
これは、大乗仏教を比丘が担って居ようが、在家が担って居ようが、思想そのものを検討すればそうならざるを得ません。先師先徳がどう言っていようと、「仏教は出家でなくてはならない」というものが、「大乗仏教の理念としてはどうなのか」という点について無検討・無批判的に「当然の前提」として立脚したものなら、それに盲目的に従う必要は感じません。

そもそも2000年前からつい100年か200年前まで、専門的仏教理論を構築できた人材は、基本的には出家比丘(専門宗教者)か上流の金持ち知識人だけだったでしょう。在家には、少なくとも庶民階級以下にはそんな暇も学識もなかったはずです(日本の江戸時代の町人階級はその限りではなかったかも知れませんが、これは世界的には特殊な事例でしょうし、江戸時代は既に半近代的時代でした)。
ですから、理念的・原理的には居士仏教であり、僧俗の本質的区別を認めない大乗であっても、現実的には出家比丘でなければ専門的な修行も勉強もできなかったとしても、それは不思議ではありません。しかしそれは歴史的・環境的要因です。
そういう歴史的・環境的要因は変化します。それによって規制されて来た諸々のことも、また変化して行くでしょう。
一方、理念的・原理的な側面は基本的には変わりません。時代的・環境的要因で表立たない時期があったとしても、時代が変われば、可能な限りで理念的・原理的な方向に沿わせていくことは当然だと思います。

明治維新期になし崩しで妻帯に走ったのは、ハッキリ言って格好悪いことでした。大乗とは何か、居士仏教とは、菩薩とは…などという検討をまったくせずに、根本的な僧侶の在り方を転換をしたことが、現在の混乱と堕落の遠因のひとつだと思います。
しかし災い転じて…ではないのですが、識字率の上昇・一般庶民の知的レベルの上昇・生活圧力の低減等等…ある意味で現在の日本の状況(否、世界的な趨勢)は、居士法師の本面目・大乗仏教の真面目を発揚する場としては、もしかしたら良い環境かも知れないと思っています。
聖を俗化してチープにし堕落し続けて来たのが、今までの日本の「在家仏教」だったかも知れませんが、本来の居士仏教とは、在俗の法師・信徒が、日日の生活上で「俗を聖化する」方向での行的生活をするものだと、私は信じています。

在俗法師としての戒・律・規範の再検討、そして何よりも自己規定をしっかり為す事で、日本仏教は必ず再生して行くと思っています。
今こそ、居士仏教を実践できる環境が出てきていると、私はそう信じます。