प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

真如への道

'11.07.11

高野山でチベット式潅頂を行うそうです。

さて。
真如、あるいは実相、あるいは一大界、あるいは法界、あるいは一元的神…なんでもいいのですが、主客未分の絶対的全体を、仮に「ケーキ」だとします。
言葉は無言語・無分節的全体を切り分けて主客の世界を現し、客体化して認識可能の次元に下ろす働きを持つものですが、そうやって概念化・客観化して記述された言葉・認識によって、私たちは思考しています(そしてそれは、全体的認識ではあり得ない以上、妄念です)。

その「言葉」が、ナイフです。

ナイフによって、ケーキである真如に切れ目を入れて私たちは日日に様々な「理解・記述・認識」をして生活しているわけですが、全体性を実現した方の指南に従い、また論理的な切れ目を入れ、その入れ方や個数、角度などをしっかり検討する事で、個別のピースを通して、全体的ケーキの認識に至ろうとするのが、仏教の教学・実践の意義であり、意味です。
その場合、真言教学の切れ目の入れ方、浄土・天台法華・禅・念仏、あるいはチベット仏教の入れ方、様々な切れ目の入れ方がありますが、どれも一貫性を持ってきちんと入れていれば、どれも全体的ケーキ認識に至るであろう、というのが取り敢えずの見通しです。
私たちは、そういう様々な教学的モデルに完全に則っていくもよし、それらを参照・参究しつつ、自分自身で試行錯誤しつつ切り方を模索して行くもよし、それは自由です。

宗派・伝統教学というものは、そういう「モデル」を提供する存在です。
個々人がそれをどう「利用」するかは自由ですけれど、宗門全体としては、その「モデル」をしっかりと維持継続・また改善して行く義務があります。それは、「様々な教学的モデルに完全に則っていく」ことを旨とする宗門プロパーの重大な役割だと思います。
私はかなり自由気儘に諸宗兼学で切り口を試行錯誤するタイプですから、伝統宗学の傾向に一々「内部的視点で」口出しは致しませんが、しかし原則論として、長い年月をかけて練られた伝統的切り方を、安易に改変していく事は許容できないことです。改変する場合は、徹底的な教学的検討がなされなくてはなりません。
南都の「八宗兼学」も、僧侶はそれぞれ自分の問題意識や実践によって横断的にそれを学び・吸収していったわけですが、しかしそれぞれの「学派」が融合して見境がなくなったわけではありません。あくまでも、個人の立場と、学派・宗団・教派教学の立場は違います。

たとえば、真言密教の教学と実践を行う高野山に於いて、「本山が絡む形で」チベット密教の潅頂を行うというのは、1200年熟成されて完成されて来た真言密教というケーキの切り出されたピースの上から、ざっくりと無邪気に他の伝統のナイフを入れてしまう、ということです。これは混乱のもとになります。
違う伝統で、違う論理のナイフの使い方をしているわけですから、同時にふたつの論理をひとつのケーキにかぶせることは、ナンセンスでしょう。

確かに「ルートは多様でも頂上はひとつ」と言いますが、ひとりの人が歩けるルートは、(既定ルートにしろ自分で切り開くにしろ)一本だけです。そしてその定式化・定型化されたルートを提示するのが、宗団の役割です。
個人的には真言密教とチベット密教を合した切り口を模索する事は良いし、新しい可能性を齎すとは思うのですが(私も似たような事をしています)、しかし宗門レベルではそういうわけには行きません。「モデル」を提示するのが、伝統宗門の役割で、その役割を放棄するとすれば、もはや「宗団」としての意義はなくなります。