प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

愛慾

'11.03.06

仏教では「無欲」を説くとされていますが、果たしてどうでしょうか。
俗に「人間の三大欲望」に、「食欲・睡眠・セックス」と言われます。
とりわけ前2者は、一週間もそれを断つと、死ぬかぶっ倒れます。一か月もやれば全員、死ぬでしょう。まさかそれらを「無くしてしまえ」と言うわけもなく、釈尊であれ誰であれ、食べて・寝ていました。
ですから欲というものは、無くすのではなくて、しっかりとコントロールし、分を弁えることです。往々にして人が欲にひきずられるという顛倒が常態化しているものですが、それこそが問題です。
名誉欲などにしても、地位を得ることに汲汲としていれば愚者ですが、地位があることで為せる業も多々あることですから、要はどういう気持ちでそれを求め・また利用していくか。そこが重要でしょう。

セックスにしても、出家比丘はいざ知らず、私たち在家の者は愛する者との全人的信頼の確認と投企がそこにあるものであれば、それは是認されこそすれ、忌まれるような行為ではまったくありません。
ところが現実には、この人格的一致に向かうべきものが、ややもすれば単なる快楽的刹那的、時には支配的・商業的な心と結びついて、人を破滅にも追いやります。破滅と言うのは現実的な事だけではなく、その人の心の内に於いて、人知れず悪業の軛・悪心の刻印となって、無自覚な中にも必ずその人の「(敢えてこの表現を用いますが)魂」を徐々に蝕んで、光から自分のすべてを遠ざけていくものです。
近代社会・現代日本は、目に見える弊害は非常に気にしますが、反面、このような目に見えない・そしてより本質的な害をあまりにも無視し過ぎる風潮があり、普通の人間までがそのような異常な状態に麻痺し、そのことが私たちの人間性ひいては社会全体を緩やかに死に追い込んでいます。

宗教すらアクセサリー的「無条件の全的肯定と癒し」を求められ、同時に宗教者自身がそれを旗印にして迎合し恥じない今、私はいったいどうすればいいか途方に暮れます。
しかし大切な事は、それでも私たちは誰であれ、仏性の子です。如来の大海そのものです。光です。そこを絶対に離さず、しかし無条件の安易な肯定などに陥らず、目を開き、誤った道でなく正しき道を模索しつつ、迷いつつ転びつつ、それでも歩き続けていく。そのための捨て石・足場にならんという志と覚悟をこそ、およそ宗教者の自覚ある者は持たなくては…と、そう思います。