प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

維摩の黙雷

'10.07.20

真理とは客観的なものかどうか。
仏教において、純客観というものは存在しない。無明妄念の生起の端緒に、主・客の分別が起こる以上、客観は妄念による概念であって、それは決して真理ではあり得ない。もちろん主観的なものでは、更にない。

記述する事。
それは言語である以上、事物・現象の客体化が必要であり、また言語自体が分別をその本質としているわけであるから、それによって真理自体を表す事は絶対にできない。その周縁をぐるぐる廻り、その影をカーテン越しにおぼろげに描く事…すら、実はおぼつかない。

では何故、それでも仏教は言葉を捨てないのか。

真如者亦無有相。謂言説之極、因言遣言。

言に因って、言を遣る…言葉によって言葉を超える…?
しかしそれは、キリスト教における神の記述と、どう違うのか。
言説の極限を、不完全な言葉で懸命に記述するとは、仏教の専売でもない。

おそらくそれは、不完全な言語でもって、いったい真理の何をどう語ろうとするのか、その部分に仏教の独自性があるのだと思う。
他の宗教、たとえばキリスト教は、絶対的な客観・つまり神を語ろうとしている。しかし仏教は、主客の彼方を指し示すに当たり、主客分離・分別を宿命とする言語によって、どちらかと言うと客観ではなくて主観の問題に焦点を当てている。
だから仏教においては、他の宗教におけるような、言説化された絶対的なドグマは成立し得ない。それは客観の絶対性・独存を前提にしなければ成立しないのだから。
仏教の経典がこれほど多様でありながら、しかしそれでも「仏教」と言うひとつの経糸によって繋がれているのは、そういうわけだ。主観の問題を、外堀を埋めていくことで暗示し、指し示し、「外堀の構図を理論化していく」。
外堀の埋め方には、色々な方法があり得る。

その後に来る「本丸」は…遣言。絶対の無分別。

さて。

などと「妄想」してみるにつけ、やはり仏教の基本は八宗兼学・諸経横断。セクト主義は仏教に馴染まないとの思いは更に募る。
真理は主客以前の彼方にあるのに、どうして無明妄念により分化した挙句に立ち現われる「客観」だけで真理を語れると思うのか、私にはわからない。どうせ言葉を使うなら、何かを語ろうとしている「あなた自身の主観」の問題の考察こそが、客観として目前している経典・言説を説くキーであることに気付くべきだ。なぜ主観というものを考慮せずに、あたかもキリスト教の神のような独存する純客観的な真理があると信じられるのだろうか。

主客未分の境地が言葉では記述できないのは不安定に思えるので、客観は妄念ではないと信じて、そこをスタート地点に設定してしまいたいと言う「常識的な思想」に仏教もいつしか巻き込まれてはいないだろうか。

もしそうならば、もはや仏教はそこにはない…。