प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

仏教と道徳

'10.06.07

・質問

仏教は人生訓や道徳とどう違いますか?

・答え

人生訓や道徳というのは、基本的には「この世界は確固とした秩序のもとに実在している」ことを前提に組み上げられた、社会的関係を円滑に進めていくための技術あるいは心の持ち方、ということなんだと思います。
たとえば道徳的な意味での「善悪」にしても、何らかの普遍的(と設定・盲信された)基準を立てて、それによって行為思考の善悪を判定して振り分けていく、ということなんではないでしょうか。
それら様々な基準に拠って成立する世界体系の中で、我々がどう「善く生きるか」ということが道徳であり、それをスローガンにしたら人生訓となるのでしょう。
しかしそれは結局、時代・民族・文化・世俗的イデオロギーによって相違していく不完全なものです。

仏教というのは、そもそもその「実在する世界」というものを認めません。「普遍的」道徳というものも「仮立」であり「幻想」であり、あくまでも仮の世界を渡るための仮初の暫定的概念でしかない、ということです。

実在としてこの世界も私もない、しかし現象としては取り敢えずある。

この事態はいったい如何なることなのか、「しっかりとした実在」を想定(妄想)してしまい、皮肉にもそれによって引き起こされる終わりなき概念の相克の内に生きるのではなく、実在性のない世界を実在性のない自分が生きるとはどういう事なのか、それを体全体・宇宙全体で目覚めていく道…これが仏教です。
ですから仏教はスローガンでもなく、理論ですらありません。その極点においては言語的概念などというものはあり得ないからです。歩き、そして「それになる(否、それである)」ことだけです。

先覚者である釈尊以来の先徳たちは、その道こそは智慧であり、慈悲である、と言っています。先覚者達の示されたこの指針を(ドグマとして盲信するのではなく、常に様々な方法で確認しながら)法の灯として、ア・プリオリに前提された世界の中で道徳的に生きるのではなく、世界自体として非実在的に生きる道をこそ求め歩むのが、仏教なのです。

恐らくその究極の地平に至れば、もはや「そこ」も「ここ」もなく、「実在」も「非実在」もない、永遠の真如だけが絶対的に「ある(…とも表現できませんが…)」、そして「私」と「真如」の絶対的同一だけが認識なき認識のうちに……

嗚呼…言語道断…。