प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

日本の仏教

'16.02.07

仏教は、長い時代を通して、色々な地域にある。
インドではじまり、大きく南と北に分かれ、南はスリランカからインドネシア方面にかけ、北はチベットから中央アジアを経て中国、朝鮮、ベトナム、そして日本に至るまで。近年は欧米にもどんどんと出て行っている。
そしてどの時代、地域であっても、もちろん「無色透明の仏教」などというものはかつて一度もあったためしはない。釈尊ご自身ですら恐らく、そうだ。
仏教と言うのは言語道断のダルマであり、それは文化言語を超越したところの「   」をこそ指し示すものであるのだから、釈尊であっても、何かしらの言語を使い、認識し、特定の文化において生まれて生活した以上、それは「無色透明」ではなく、「インドの・紀元前数世紀の」文脈に沿った言説にならざるを得ない。
もちろん「ものさし」がそうであるからと言って、それにより測ろうとしている「   」までが文化的文脈どっぷりのものである、ということではないけれども。それはあくまでも「普遍」のものであるだろろう。
ただ私たちは、それぞれの時代・地域・文化・言語によって規定されていて、まったくそれから離れては何も考えることはできないし、語ることもできない。
と、いうことをまず押さえたうえで。

私たちは「仏教徒」である。では、「私たちの仏教」とはいったい、どういうものであるか。

たとえばチベットであれば、確かに「普遍的仏教」を志向するのは当然だけれど、それを「チベット語」で表現し、チベットの風土にそれはあり、「前仏教期」の長い歴史に培われた土着文化に染められた仏教であらざるを得ないわけだ。そしてまた、インド仏教と中国仏教の展開とも連動している。
中国も同様、漢字・漢語に規定され、道教や儒教に規定され、華北や江南の風土に規定され、政治体制や民族構成にも影響されて来た。その中で、仏教者は「普遍」を求めて来た。その歴史の堆積が、「中国仏教」である。
日本もまた。歴史以前の日本的な精神性、風土に培われた民族の気質、中国文明の圧倒的な影響、独特の言語体系、同時進行で発展した神道との相互影響などが複雑に絡み合い、「日本仏教」というものが成立している。

目をヨーロッパに転じてみよう。
ヨーロッパは、キリスト教国であると言われているが、仏教と同様に、「無色透明のキリスト教」なんか、ない。イスラエルで発生したキリスト教は、ギリシアのフィルターを透過し、ヨーロッパに広がる。そしてそのギリシアはギリシア宗教や風土、思想、言語に規定されていて、キリスト教もそのようなものとして、変質していく。「普遍」は変わらずとも、形式と思想表現の姿は変わっていく。その先には、ゲルマン・ケルトの長い伝統との接触と融合が待ち受けている。ロシア方面にはスラヴのそれが。

だから、私たちが「仏教」と言うとき、自分自身の伝統を無視しては、それは何を意味することも出来ない。日本人仏教徒がいくらインドやチベットや東南アジアの仏教を取り上げたとしても、日本的なるものと密接不離の日本語を母語として、そのような風土に育ったものであれば、1500年の蓄積を捨象して「インド仏教徒である」とは、絶対に言えない。もし、「日本的なるもの」を無視して何ものか「他の伝統」に全面的に帰入しようとしても、それは根無し草であって、上滑りの観念論にしかならない。
その「観念論」を共同幻想的に大規模に受け入れて推進すれば、数百年のうちには「日本的なるもの」として消化していくのだろうけれど、いずれにしても「根」を「日本」に張っていなければ、虚しいだけになるだろう。
その為には、「日本仏教徒」とりわけ「僧侶」であれば、「仏教とは何か」を普遍と特殊の両面から考えていかねばならないとともに、「そもそも日本的とは何か」ということにも、目配りをしなくてはいけない。

「日本の民族性」についてのそれと、「日本仏教」についてのそれとは、自ずと視点が違ってくるだろうけれど、少なくとも「日本仏教」についてそれを考えた場合、「漢学」というものの圧倒的な影響を無視することは絶対にできない。「日本的である」というのは、「漢字以前の日本」に「漢学文化」が融合したものに他ならないのだ。神道ですら、その相当の部分が中国的なものであるわけだ。
そういう意味で、今の宗門大学の教育方針には疑問を感じざるを得ない。サンスクリットやチベット語ももちろん大切。それらを無視しては、普遍的な仏教のあり方を考えることに支障を来すからだ。ただ、それよりも根本的に、私たちは「漢学の伝統」と「中国仏教」をもっと、知らなくてはいけないのではないだろうか、と。
学部のうちは、必修としてドイツ語やフランス語なんかではなく、漢文をさせるべきではないだろうか。サンスクリットやチベット語以前に、漢文そして漢学の基礎を叩きこむべきではないだろうか。それが、「日本仏教」の基礎であるのだし、日本文化の根でもあるのだから。

そのようなものをもし捨てて、普遍にのみ向かおうとしても、それは無理筋のこと。
特殊、私自身の根ざしている特殊を通して、人は普遍に向かうしかない。
そしてその特殊とは何かを意識して、その形成の過程をしっかりと認識すること。
特殊は孤立ではなく、網の目のように世界を覆っている何ものかであり、日本の場合は、漢字以前の基層に、漢字文化が圧倒的に融合したものであろう。日本人らしさというか、日本人として、あるいは人間としてまっとうにものを考えたいのなら、自分の特殊をよく理解して、普遍を目指さなくてはならない。
「日本仏教は云々」と言う人は多いけれど、果たして日本仏教や日本について、きちんと意識して発言しているのだろうか。帰国子女が「欧米では」と軽薄に恥ずかしげもなく日本を批判しているのを見て失笑もすることもあるが、それと同じことではないか。

特殊のありかたは流動的で、時代によって変化していくけれども、それは過去の蓄積の延長線上にあるのだから、私たちは過去・現在の「特殊」をしっかりと認識し、未来に向かって変化していく必要がある。過去を軽く見て、未来をのみ志向するところ、そこには空虚な自己満足しか存在していないのだと、私は思う。