प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

夜の喪失

'16.01.21

去年の秋から、夜に45分くらいウォーキングしている。
雨の日は行かないし、週一くらいで休んでいるけれど、平均して週に5日程度。約5000~6000歩くらいにはなるだろうか。大した距離ではないし、ダイエットとかにもならないけれども、まぁ、一種の気分転換というか運動不足の解消の為と言うか。
そうして、歩きながらぼんやりと考え事をしている。歩きながらというのは(…散歩ならともかく、暗闇を懐中電灯で一分間に130歩のマーチングペースだと)、意外にきちんとは考えられないもので、取り留めのないないことを考え…というか、思っているだけなのだけれども。
だいたい、何を考えているかと言うと、たとえば今日は、「月が出ていてちょっと明るいな。街灯が少ないと、月明かりの推移がよくわかるな」というところから、以下のような妄想が湧いてきたわけで、だいたいいつもこんな感じである。

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夜と昼。あるいは光と闇と。
人間の精神性のバランスはこの両面がなくては、実際にうまいこと取れないのではないだろうか。

昔、人間の精神あるいは生活には、夜あるいは闇の面積がかなりたくさん存在していた。電気がなければ、基本的に時間的な意味で夜は闇であって、その時間帯、外(家の外・村の外・城壁の向こう側)は人間以外の者が棲む場になる。また、空を見上げても、そこは「人知の及ばない」不思議が横溢していたし、島の向こう、海峡の向こう、砂漠の向こう…は、まったく意味不明な人間や人間以外の者が跋扈する「異界」に他ならなかった。
また、精神病なども「異界」であり、それら諸々の「人知の及ばない」ものは「夜の領域」として、私たちの手の届かない世界であり、世界の半分は「そういうもの」で埋め尽くされていた。

一方の昼の世界というのは、もちろん「日常」であり「仕事」であり「常識の通じる世界」のこと。

何万年も、人間はこういう「昼と夜」とによって、バランスを取って生活していた。
ところが、ここ200年、世界から「夜」がどんどん追放されて、どこもかしこも昼の光に照らされてしまっている。これを「進歩」というのだろうけれど、お蔭で人間は精神のバランスを崩しつつあり、文明も精神性も何もかもが光の洪水の中に融解してしまった。

「宗教」というのは、もともと「昼と夜」の境に立ったものだったのだけれど、この「昼だけの世界」にあって立ち位置を失い、もはや「昼の補完」をするだけの存在になり下がってしまっている。いや、もともとメインストリームの「宗教」は、昔から夜の存在を振りかざして「昼の補完」をするものだけれど、今ではメインストリームだけではない、すべての宗教が「昼」の軍門に下り、「昼」の素晴らしさを賛美することに活路を見出そうとしているのではないか。

しかし人間は、昼だけで生きていけない。少なくとも、古代をまだ引きずっている現代の我々には、それはなし難い。
だけれども、夜が見当たらない。

ゲームやオタク趣味…ヴァーチャルな世界が、現代の夜の領域の代替であったりするのかも知れないけれど、しかしそれは代替に過ぎず、人間本来が持っている「夜・闇」というものを満たすだけのものであるだろうか。
昼と夜のバランスを失して昼だらけになった文明や人間は、いずれ全体として、「昼ごと夜に落ち込んでいく」。病んでいく。衰弱していく。人は、未知の領域にではなく、まさにこの日常のど真ん中に、きっと闇を作っていく。そうして、人類の黄昏がやって来る。

まっとうな夜はもう失われてしまったのだから。

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思えば19世紀末あたりというのは、「夜」が最後に大規模な抵抗を見せた時期だったのだろうなぁ。
「戦争」という真昼間の都合で、夜も完全に抹殺されてしまったのだけれど。

…などと、夜を抹殺した現代社会の一員である私は、思いが政治などに及ぶ寸前に光溢れる自宅に到着。