प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

三蔵の義

'12.02.01

唐代の円敬という僧侶の『唐故宝応寺上座内道場臨壇大律師多宝塔并序』という長ったらしい題目の本に、「三蔵」を解説した文があります。

三蔵に三義あり。
内は定慧戒を為し、外は経律論を為し、
陀羅尼を以て之を総摂す。

簡潔至極ですが、とても素晴らしい文です。
まず、三蔵法師と呼ばれた歴史上の偉大な僧は、単にそれが学解にとどまるものであれば偽者(あるいは半端者)であり、およそ「真実の三蔵法師」たるものは、学解のみならず持戒・修行実践を踏まえて智慧を把持した者である筈だ…という事です。
往々にして偉大な仏教学者が偉大な仏者でない場合があるのも、まさに「戒定慧」を兼備していないところにその原因があるのでしょう。
もちろん一方で、「戒定慧」を具備していても「経律論」を軽んじてそれに通じていないなら、「吾ただ独り」の行者としては良くとも、決して大乗の法師とは言えません。法師とはまさに、「言葉によって他者に正法を説く者」の謂いですから。
いずれにしても、理論と実践の相即がここに示されています。

最後の「陀羅尼を以て之を総摂す」の部分、これは密教の基本的な考え方に連なるものですが、念仏にしても座禅にしても題目にしても、あるいは他の様々な修行にしても、専一にまた至心にそれらを実践する「事」のうちにこそ慧が立ち上るのである…という事が根本だと思いますから、そういう意味では通大乗仏教的な思想として読んでもいいと思います。

短い文章ですが、味わい深いですねぇ。