प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

坊さんの役割

'10.05.07

坊さんの役割って何だろうか?

仏教を学び・実践し・それを伝える。まぁまずこれが基本。
ただ、その「基本」はあくまでも「能書き」でしかなくて、問題は何をどう学び、どう実践して、どう伝えるのか…という、具体的な部分なんだろうと思う。
とりわけ「実践」という局面において、その難しさは露呈するわけで。

読経ひとつにしても、きちんと意味を理解して、その経典の教えを眼前に展開してリアルに心に刻みながら読経しているのか、ただ単に意味もわからず朗読しているだけなのか、見た目じゃハッキリわかんないけれど、確かにそれは「仏道実践」としては雲泥の差であって、このことは読経に限らず、あらゆる場面で同じことが言えるのだと思う。
仏道の核心的行為を、形式だけではなくて中身まできちんと「実践」していった上で、なおかつ具体的な社会事業を「実践」して行ければそれはそれで立派なことだと思うのだけれど、前者を恰好だけ「こなして」、「見え易い」社会的実践に注力するのだとすれば、それは一般人としては立派な人であるけれど、坊さんである意味はほとんどないのではないかと、そう思う。

例えば、水不足の地域に井戸を掘るのはとても大切な行為だけれど、医者が患者を放置してまで井戸掘りに邁進するのは、それは人としては悪い行為ではなくても、医者としては「オメェにはもっと違う役割があるだろう」というのと同じことで…。
患者を十全に治療しながら余暇に井戸掘りするならいいし、井戸掘りをする人の健康を護る役割を医者として果たすのであれば、それは重要かつ本質的な仕事ではあるのですが、自らスコップを持って井戸を掘ることに没頭しては本末転倒。
でも多分、ほとんどの凡人には、それは難しい。自分の役割・使命を「十全に」果たすだけでも、それは極めて困難な仕事の筈だ。私など十全どころか、仏教の上澄みのほんの一部を撫でるだけでも手に余るくらいの大仕事だと痛感せざるを得ない。

坊さんの実践って、何だろうか。
仏教を地道に学び・地味に実践し・コツコツ伝えていく行為(伝道し、対話し、相談相手になり…)は、「見え易い」社会事業と比べて無意味なことなんだろうか。だとしたら、寺なんかすべて潰して、悉く社会団体にでも寄付したほうがいいんじゃないの…?

現代の坊さん、あまりにも自分の本来的な役割を忘却してやしませんか?