प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

仏教の大河

'10.02.01

およそ宗教思想というものは、キリスト教であれイスラームであれ仏教であれ、一生命体の如く成長して複雑化・構造化する方向性とともに、常に原初的位置に遡行しようという原理主義的方向性が、時に対立し、時に相互影響し合って、つまりないまぜになって現実の歴史に立ち現われるものだと思います。
キリスト教にあっては前者は例えば、神秘主義的な方向を取り、後者は聖書主義ということになるのかも知れませんし、仏教では大乗仏教が前者、上座部的方向性を後者とできるのかも知れません。
しかし実はそう話は簡単ではなく、いわゆる聖書原理主義が原始キリスト教そのものかと言われればそれは違うし、上座部だって同じことです。他にも道元禅師に見られる釈尊回帰的方向性がそのまま原理主義仏教として「原初的仏教の復活」となるわけでもありませんし(仮になったとしても、だから最善であるとは限りません!)、どちらの方向性も決定的な宗教的立場とは成り得ません。
すべて複雑に絡み合い、錯綜しています。
つまり、歴史とともに成長し・構造化した思想・実践形態を不純のものとする立場は、結局後者の信条に過ぎないわけですし、逆に、原初的形態を「子供のような」可能態にあるに過ぎない未熟で単純な原始的形態であると見做すことも、同様に偏頗な見方でしかないでしょう。

何かしらの宗教を信ずるということは、しかし結局、この複雑な動きのどこかに自分を固定して繋ぎとめることである…というのが、現実に横行している態度ではないでしょうか。
その凝結した部分、糸の絡んで固定してしまった部分を名付けて、「宗」と言うのでしょう。
もちろん宗的思索は重要です。高みに登っていく梯子には一段一段、しっかりとした足場がなくては墜落してしまいますから。しかし足場は足場であり、目的は頂上に至りつくことなのではないでしょうか。梯子は総体として重要であり、同時に、梯子は目的自体ではありません。

仏教の大河をどう渡るべきか、試行錯誤の日々です。

硬直化した理性的選択などで自分をどこかに固定してしまわず、存在の全体を全体として絢爛たる光のイマージュの中に叩き込み、そこに生きたダンマの顕現を自己として輝き出せれば…などと夢想したところで、所詮はこれもある種の神秘主義的な「糸の絡み・梯子の足場」でしかないのでしょうね…。