प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

言語道断

'17.12.21

もし未だ諸法の密号名字の相 真実語如義語を解らざる者の所有の言説 思惟 修行等は悉く是れ顛倒なり 悉く是れ戯論なり 真実究竟の理を知らざる故に

真実の言葉を理解していなければ、いかなる言葉や考え、行為であれすべて誤りである。真理から外れているからである。

「吽字義」

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密教のみならず、そもそも仏教というものはこういうものだと思う。「諸法の密号名字の相」であれ「真如」であれ「諸法実相」であれ「般若」であれ、それについて「世間一般の言葉で解明できるものだ」と思うならば、それはそのまま隘路にはまる。仏の影について語ることと仏そのものを観ることは違うし、仏を観ることと仏に成ることは違う。仏に成ることと仏であることは違うし、仏であることと仏であることを超脱することは違う。その地点からのみ、仏の影乃至超脱までが一貫する。
言語分節主客相対は結局は戯言の羅列である。
しかし人は気づいたらその分節世界に生きている。だからそれを足掛かりにして進むしかないが、足掛かりは足掛かりであり、進み登る先に到達することとはまた違うのだ。
現代社会は知に傾いているが、いかに知識を積み上げようと、それは足場の整備でしかない。それなりの整備ができたら、早く早く上るべきだ。ダイヤモンドの足場や絢爛豪華な足場の製作に一生を費やすよりは、用の足りる足場ができれば、歩き出さなくてはならない。