प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

名と実

'17.12.19

物事には「名と実」、言い換えれば「看板と中身」というのがある。
世間に流布するものは看板が先であり、中身は遅れて理解される。また衰退腐敗するのも消え去るのも中身が先で、看板はそれっぽくずるずると流布していく。

僕たちは僧侶であり、例えば宗門の看板を背負っているし、そもそも「仏教」という大看板を背負っている。
これらの看板にはもちろん内容はあるけれど、世間に看板は流布すれど内容までが理解されているとは言い難い。内容が周知であれば、僧侶がアホなことを言おうがやろうが、そいつが「内容に即していない馬鹿なのだな」と思われるだけで済むが、内容が周知でない場合、その僧侶が背負っている看板と彼の行状が結びつけられ、仏教の内容までがくだらない無価値なものと思われてしまう。
ほとんどの日本人にとって、仏教との接点は葬儀と法事にしかなく(しかも法話すらしない僧侶も多い)、また田舎でも特定個人の地域の住職とその寺族、くらいなものだ。つまり、「中身」に相当するのがそういう限られた機会と狭い環境の中にしかない。
釈尊や宗祖の教え、あるいは仏教史や思想などとの接点など、普通の人は持っていない。しかし「仏教・○○宗・お寺・僧侶」という看板は知ってはいる。言い換えれば、仏教教学や思想実践、ダルマという水はなくても、空のコップは持っているわけだ。その空のコップには、ふと目にした具体的な目の前の坊さんや菩提寺やらの言動を水として注ぎ込む。

思えば恐ろしいことで、甘露の法水の代わりに自らの淀んだ泥水を注ぎ込み、仏教の看板を背負いながら無慚無愧の行いをあたかも仏教の実際・内容と誤認させるようにしてしまう。
これをこそ謗法と言わずして、何としよう。

僕自身、正直なことを言えばまったくもって慈悲喜捨円満とはいえず、人嫌いの気もあり、行には怠りばかり、三業に毒を含んでいる。
生きては迷い、死しては地獄の境涯であろう。
とは言え、ダルマを学ぶ機会には恵まれ、会い難き仏法に今生で出会えたのも事実。この機会をなんとか活かして、法の宣揚はならずとも、せめて法を下げないように生きていきたいものだ。