源信の発心
'16.04.24源信と言えば『往生要集』などで有名な高僧ですが、
皇族・貴族の前で「御八講」という法会の講師を立派に勤め、
それを母に報告した時に、母から送られて来た手紙に、こういう歌がありました。
後の世を 渡す橋とぞ 思ひしに
世渡る僧に なるぞかなしき
昔の母というものは立派であった。
源信はこれを機に、隠棲したと伝えられています。
私たちも、「良い事」と信じて疑わぬことをして世渡りしていますが、
僧侶として、何が大切か、これは世俗の倫理とは少し違うのではないでしょうか。
御八講の講師となるのがそれほど悪い事とは言えません。
皇族にも貴族にも、法を説いていくことは大切です。
しかしそこに、それを栄誉や名誉と感じる隙はないでしょうか。
そのような立場を求めてしまう事はないでしょうか。
似たようなことは、今の世にもたくさんあります。
昔よりも、そういう事は多いかも知れません。
社会的評価は大切ですが、それを求め始めたら堕落です。
後の世を渡す橋になっているか、世渡る僧になっているのか。
それは世間の評価とはまったく別の、内心にしかわからないことです。
僕自身、どうだろうか。
よくよく、戒め考えたいものです。