प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

薫習

'16.02.23

薫習というのは、たとえば線香などの香りが服に自然に移って匂うようなことで、ある強い力のものがより弱い力に影響を与えて、徐々に強い方に引かれて同化していくことを言います。
仏教においてはこの理屈が覚りや迷いの実態を説明するのに利用されたりしますが、その内容は色々な立場があり、一様ではありません。ここでは、『大乗起信論』に基づいたものを提示してみたいと思います。

最初は、流転門・染法薫習で、これは迷いの心の生起についてです。
まず、無明という根本的で微細な「妄念」があり、それが真如に薫じていくことで、粗大な妄心が出てきます。その妄心が「逆薫」といいまして、無明に働きかけることでますます無明の勢力が増加し、そこから妄境界、つまり客観世界・認識世界が立ち上がります。それが主観世界である妄心に「逆薫」していくことで、執着心の世界が現前していく。このプロセスが不断に働くことで、迷いはいよいよ深くなります。
流転とはいえ、直線的な生起ではなく、行きつ戻りつ、妄念・妄心・妄境界、そして執着の世界が立ち上がるのです。
これを一連の流れとして示すと、以下のようになります。

●流転門・染法薫習

無明 →→薫=無明薫習→→ 真如 →→生→→ 妄心 →→逆薫=妄心薫習→→ 無明
無明 →→生→→ 妄境界 →→逆薫=妄境界薫習→→ 妄心 →→生→→ 執着心

次に、逆の行程。つまり、迷いから覚りへの道程も、薫習論として示され、それを還滅門・浄法薫習といいます。
ここでは、人間が如何に迷いの深淵に沈んでいたとしても、その本質は真如であり続けて不変である。そこに気づくことで、真如が妄心に働きかけをはじめ、その働きかけ・薫習を本薫=内薫=妄心薫習と表現します。そして真如に働きかけられた妄心は厭求心を生みます。これは迷いの世界を厭い離れて真如・覚を求める心となるということですが、それがまた逆薫、これを新薫=外薫と言いますけれど、真如に薫習していきまして、真如の顕現がますます増大していく。それが増長していくことで、最終的に無明が消滅して、本源に還る、つまり覚を実現する、というプロセスです。
これも一連の流れとして示しますが、以下のようになります。

●還滅門・浄法薫習

真如 →→薫=本薫=内薫=妄心薫習→→ 妄心 →→生→→ 厭求心
厭求心 →→逆薫=新薫=外薫→→ 真如 →→生→→ 無明消滅

『大乗起信論』の薫習論というのは読んでてわかりにくいのですが、整理すると意外に簡単な構造です。簡単なのですが、これを自覚して実践にフィードバックするのはとても、難しいことだと思います。
そのための実践論というのは色々ありますが、基本的には六波羅蜜であるということです。細かい事は今回は割愛いたします。

唯識などの薫習論とはまったく違う概念操作をしていますから、「なんやコレ」となる人もいると思いますけれども、如来蔵思想の立場での薫習論のひとつの代表的なものが、この『起信論』薫習論です。
直線的なものではなくて、旋回しながら上がり下がる構造で、この流れの中にいるうちは、まさに「輪廻」の中でぐるぐる回り続けるのである、という感じで、仏教としてきわめて相応しい構造であり思想なんではないかと、そう私は思っています。