प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

三力偈

'16.02.18

仏教で、自力とか他力とかいう言葉がある。
浄土系は他力だ、それ以外は自力だ、という表現で使われること多いのだが、
真言宗ではどう考えるだろうか。
その、「自力・他力」という範疇での分類は、果たして適切なのだろうか。
真言宗の立場では、それを否定とまでは言わないが、少し違う見方をしている。

真言宗は、「三力」ということを言う。
私の力。如来の力。法界の力。
この三つが合一したところに、真実の「力」というものがあるのであって、
「自と他」とを分けて考えることは、本来的には無意味、
もっと言うならば、それこそ妄想・妄念の所産であり、迷いである、と。

三力偈というものがある。
これは真言宗僧侶が毎日、お唱えをする偈文。

以我功徳力
如来加持力
及以法界力
普供養而住

私の功徳を積む生活や行の力をもって
如来の加持の力をしっかりと受け止めることができる
その自他不二の力が森羅万象の大きな力とともにある時
すべてと相互供養した真実の実相の世界が輝き、それそのものとなる

私の力、如来の力というものを、分けない。
それは確かに「別のもの」に見えるかも知れない。
凡夫である私たちは、そのように受け止めてしまう。
けれどそれは、まやかしだ。
私の功徳は小さなさざ波のような力しかないように見える。
如来の大悲の力は大きな海のようなものだけれど、
その海と波を分割して、「あれとこれ」と言っていいのだろうか。
波である自身が小さいように見えるからと言って、海を崇めていいのだろうか。
そうではなく。そうではなくて。
海と波の本来的一致を信受するところに、
色々な「小さな波」・森羅万象が自ずと一致し、
海・自分という波・他者という諸波がひとつであるとわかり、
相互に溶け合い、影響しあい、究極的には「大海」ひとつでしかないのだと、
そういう相互供養の世界に「なる」ことができるのじゃないか。
それが、成仏という事態なのだ。

…。

これが真言密教の立場であり、世界観であるとしたならば、
そこに、自力と他力で分けていくことが、迷妄の世界の所作であること、
所詮は世俗内の、便宜的な、スタート地点の考えであることがわかるだろう。
スタートの考えたかは大切だ。
だけれども、私たちはこの人生で、嫌と言うほどスタート地点の考え方を知っているのではないか?
もう、歩き出すべき時ではないだろうか。

そしてこの真言密教の思想は、真言密教にとどまるものではなく、
恐らく、全仏教にとって、決して「無茶苦茶」な考え方ではないと思う。
私は、様々な仏教を総合的に学びたいし、釈尊以来の仏教すべてに依拠しているつもりだけれど、
この「三力」の思想に立脚して、法華であれ華厳であれ浄土であれ禅であれ、
どんなところにも出ていくことができるのだと思っている。