प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

競争

'15.11.24

質問

勝った負けた、順位、勝負というものは仏教的には良くないものではないですか。
私は音楽を志してますが、コンクールなどで順位をつけたり、ある意味で「勝ち負け」を決定することについて、どう考えますか。

答え

仏教や宗教というものの「目的」というか、それをする「動機」というのは、そもそもこの世界というものの不思議さ、この命というもの、自然宇宙というもの、人間と言うもの…なぜ私は存在しているのか、せねばならぬのか。
不可視のものはあるのか、あったとして、それこの私にとって何の意味があるのか。不可視のものがないのだとしたら、それそれで、では、倫理とは何ものであるのか…。
哲学も同じだと思います。
そして、こういう根本的なところについていえば、そこに「競争」や「順位」というものに決定的な価値はありません。とりわけ、一元論的な志向性を持ったものであれば尚更でしょう。
あくまでも、仏教者としては、「世界の秘密・存在という驚異的な事態」に、実際に「触れる」それに「なる」、否、それで「あった」ことを知る。それがすべてです。そしてそれを知るためには、考えること・学ぶこと・実践することが必要なのですが、実はこれらにはいくらかの技術が必要です。方法論です。
天才的な人は、ごく稀に方法論を超越した人もいますが、まぁ大抵はそういう人ではないので、方法論は必須です。
そうして、ある一定のラインを突破したものだけが、「世界の秘密・存在という驚異的な事態」に、実際に「触れる」それに「なる」、否、それで「あった」ことを知る、というレベルに向かって歩く力を得られるのです。
その「一定のライン」に達するには、努力と精進が必要です。
その為に、ある種の競争や選別的試験は、「手段」として非常に重要であり有効なのです。
僧侶を養成する宗門大学や道場においても、ある意味での試験や順位付けは行われます。
しかしその「競争」「選別」というものは、あくまでも手段であり、決してそれそのものが目的ではなく、勝って誇り、負けて挫折する、という性質のものではありません。一定のラインに、自己一身のレベルを引き上げるための、ひとつの有効な手段です。
そこを間違えると、生まれてくるのは単なる学者であったり、権威主義的な僧侶であったり、挫折した落ちこぼれです。でも、そういうことではないんです。

音楽というものも、本当は、音を通して世界の秘密に直に触れることなんだと思います。
空気の振動が、鼓膜を震わせ、その物理運動が不可視の心そして魂を揺さぶるわけで、それはまさしく、「世界の秘密・存在という驚異的な事態」に、実際に「触れる」それに「なる」、否、それで「あった」ことを知る、ということなんではないでしょうか。
どんな分野でも、たとえば絵画でも、あるいは農作業でも、職人でも、スポーツでも、そして教育ではまさに、究極は、そういうことであったはずだし、そうであることが可能なものだと思います。
で、あるのならば、音楽も、コンクールは手段としてとても有効なものではないですか。
それが目的になった音楽は死んだものですが、一定のラインに、自己一身のレベルを引き上げるための、ひとつの有効な手段であるのなら、それはむしろ必要なプロセスになるのではないですか。
それはたぶん、仏教僧侶の訓練と同じことなのではないでしょうか。

あなたが一流になれば(もしくは天才であれば)、おのずと競争やランク付けの段階を抜けていきます。
それまでは、一心に、戦っていく段階を生きてください。
そして常に、そもそもの目的とは何であるのかということ、世界は驚異に満ちていて、そこに触れる行為のためにこそ今を生きているのだと、それがすべてだと、それだけは忘れないでください。

そしていつか、方法論などというものが如何に不完全で人を縛るものであったのか、それを知って、自由に、自由に大きく羽ばたいてください。でもそういう不完全で小さなものを捨てるには、それを得なくては捨てられないのです。そしてそれを得ない者は、いつまでもそれ「に」縛られるのです。