प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

仏教と社会

'15.07.04

私は、はやりの「寺院や僧侶の社会運動」というのには懐疑的なところがあります。
悪い、とまでは言いませんが、たとえば平和運動とか政治運動とか社会改革運動、
あるいは反原発とか貧富の差の指弾とか、まぁ、色々な「運動」があります。
同和問題とかもそうですね。
あと、イベント仏教。
色々なことをやっている人がいますが、私はあまり好きじゃない。
端的に、嫌いなんです。
何でかと言うと、こういう運動、観察していると、別に仏教じゃなくてもいい。
というか、敢えて仏教色を薄めて…みたいなところがある。

このような活動自体はいいんです。必要なことです。
でも、坊さんが出しゃばってやるよりも、専門的な人がやりゃいいんじゃないのかな、と。
仏教色を出さずにやるのなら、坊さんがやるよりも専門家のほうがきっと、いい仕事ができる。

たとえば「反原発」。

科学的にどう、核兵器への転用がどう、環境汚染がどう、健康被害がどう、コストがどう…。
そういうのは、専門家が主張したらいい。
もちろん、そういうものについての勉強は必要で、私たち僧侶もきちんと知っておくべきこと。
その上で、もしそれらについて発言するのであれば、
「仏教の立場ではこう考えます」ということをきっちり、前面に出して主張しないと。
反原発の市民グループと同じ主張しか出てこないのであれば、僧侶の意味はないと思う。

世界には色々な問題があり、仏教者はそれらについて発言すべき。
また、何かしらの行動を起こすべき。
ただし、「仏教の立場ではどうなのか」ということが中心であるべき。
自分たちの主張が普遍性を持っていると信じるのであれば、あくまでも仏教の立場で発言すべきだと。
平和運動にしても、「人権」や「戦争の悲惨さ」を出すのはいい。
いいんだけれど、そもそも仏教では戦争をどう考えるのかが主張されなければ、
それは別に仏教的価値観じゃなくても構わないわけで。

うまく言えないのだけれど。

「多様な価値観の尊重」はいいけれど、その「多様」の中にしっかりと仏教を入れて欲しい。
多様な価値観を尊重する為に仏教色を抑えるというのは、ちょっと違うんじゃないのかな。
仏教は「コーディネイト」のためにあるわけじゃなくて、一個の「価値観」なわけでしょう。
しっかりと主張したらいいのだと思う。
どうして自分を殺して、他を受容しようとするのだろう。
真の受用、相互理解とは、自分を消すことではなくて、しっかりと自己の立場を明言して、
その上で、多様な立場が連携していくことじゃないのだろうか。

そういう、社会通念や一般世論、あるいは理論てはなくて、「仏教の立場」を確立して、
あくまでもその立場から、社会問題にコミットしていくのであれば、とても価値があることだと思うし、
僧侶あるいは仏教徒の立場でしか為し得ない発言や視点の提供ができるようになるのではないかと。
別に、一般の市民運動と群れる必要はなくて、単独でもいい。
その単独の立場での発言にこそ、本当の仏教の価値というものが立ち上がるのではないかなー、と。
そうすれば結果として、様々な立場の人たちと、本当に連携もしていけるし、
仏教というものの価値、存在意義というものが認知されていくのではないだろうかな、と。

そうではない、単なる社会運動や事業なんて、仏教者がやることでもないような気がする。
もっとやらねばならない、また、やれるはずの役割が、私たちにはあるんじゃないだろうか。

なんて事を考えながら、
まずはこの社会の矛盾や問題について、私も色々ともっともっと、知らなくてはならないなと。
仏教と言う巨大な思想、実践についてもっと知らなくちゃなぁ、と。
そう思った次第です。
その上で、あらゆる問題に仏教の立場でどう発言していくのか。

はぁ。
勉強しないとなぁ…。