प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

偶像崇拝

'15.06.15

本日、御室派山口宗務支所の講習会で、三井記念美術館館長の清水先生のお話を聞きました。主には日本の仏像の変遷について簡単に教示いただいた、というところです。

仏像の話そのものはいいのですが、「仏教は言うまでもなく、偶像崇拝であり、キリスト教やイスラムと違う」と仰っていましたが、それはどうなんでしょうかね、と。そこにはちょっと引っかかりました。
私は例の如く懇親会には出ずに帰りましたので、質問する機会も逸しているので直に見解をお聞きできなかったんですが…。

いわゆる「偶像崇拝」というのは、きわめてヘブライ的な考え方で、たぶん聖書に出てくる「金の牡牛」でしたっけ? モーセのあたりの逸話が有名ですけれど、あれは「像そのものがまさに神である」ということでしょう。
イスラームにおいても、メッカのカアバ神殿にジャーヒーリヤ時代に祀られていた、まさに「像」がそのまま「神」である、という…。

果たして仏像と言うのは、それと同じなのかどうか。

東方教会には「イコン」というものがありますが、オーソドックスの公式見解では、あれは「偶像」ではなくて、「神の似姿」であるから、イコンを通して、そのもっともっと奥にある神を信仰するのだ、ということになりますが、仏像もそういうものではないですかねぇ…。

また、「偶像」というものを、「ある種の物質に神性があると考えて拝む」ということであれば、たとえば「公式教義」は一旦、別にするとして、イスラームにおける「聖者廟崇拝」やカアバの位置づけも偶像であるかも知れないし、キリスト教に至っては「聖遺物崇拝」なんか完全に「偶像」ではないかと。もちろん仏教でも同じですが、一般の人の信仰形態としては、ほとんどメンタリティーは変わらないような気もしますね。

「仏教は言うまでもなく、偶像崇拝であり、キリスト教やイスラムと違う」という時、仏教に対しては、巷に流布している一般的な感性をもってそう言い、キリスト教等についてはタテマエの公式教理を立ててそう規定しているとすれば、それはちょっと比較としては当たらないのではないかと。

仏像の変遷とはちょっと横道ですが、もっとも気になったところでした。

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因みに。
イスラームにおける聖者廟崇拝が「偶像崇拝」と考え得ることの証左として、タリバンやイスラム国が、アフガンからイラクにかけての支配地域において、シーア派やスーフィズムの聖者廟をぶっ潰して回っていることが挙げられると思います。少なくとも、信仰の歴史や民衆の感性を無視した「原理主義」の立場では、ああいうものは「偶像崇拝」と規定される。ビザンツや宗教改革期のイコノスクラムも同じことで、そう考えると、キリスト教やイスラムは偶像崇拝ではない、というのは、かなりタテマエ上のものでしかない、と思われます。
仏教においては内部からのイコノスクラムはありませんでしたが、それは一神教の聖典のような、過激な「偶像排除」の思想がなかっただけで、かと言って原理的に考えた時には、別に「像」が不可欠のものというわけでもないのですから、構造は似たようなものでしょう。